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[第2部 復興](6)

私達が愚かだったのよ


その週末の夕方、夙川の河原を散歩していると、(妻が「最近、あなた運動不足だから」といって、河原に設置しているストレッチ用の鉄棒や吊り環を使った体操を勧めるのだった)川上の方から、副理事長の皆川さんがジョギングしながらやってくるのが見えた。
「こんちは」と挨拶すると、皆川さんはタオルで額を拭きながら近づいてきて
「三島さん、うわさは聞いてます。近いうちに理事長が連絡をとると思います。いま、住民から理事会に投書がいっぱい来てるんですよ」
「そうですか。中身はどんな?」
「ま、大半が、“理事会、辞めるな、もっと続けろ”いう激励のお手紙ですな。これが7割。残りは逆に“否決されたんやから、理事会は潔く身を引け”というもの。これが3割」
僕は思わず吹き出した。
「どないせーちゅうねん、て感じですね」
「まったくですよ、2つに引き裂かれる。股裂きですよ」と大笑いする。朗らかな人だ。
近くを犬を散歩する人が通りすぎ、その度に鳩の群れが一斉にはばたく。川の両岸に植えられた桜の木の枝葉のすき間から夕陽がにぶく射しこむ。
「皆川さん、実はいま、全棟で署名を集めています。E棟はすでに集まりました。8月中に全部集めるつもりです。集まったら代表者全員で、理事会にうかがうつもりです」
「ありがとう。お待ちしてます。あなたたちが最後の望みです」
「では、そのときに」と言って僕たちは別れた。
 
その晩、夕食を食べ終ってくつろいでいると、玄関のベルが鳴った。
「誰だろう?池谷さんかな?」とつぶやきながら扉を開けると、そこに大山さんの奥さんが立っていた。
「あ、こんばんは」と挨拶をすると、奥さんは会釈しながらもなぜか黙ってじっと僕の顔をみている。妙に間があいた。
「そうだ、大山さん、ご報告するのを忘れてました。この間お伺いした時はですね、E棟集会をする、という趣旨で署名をいただきましたが、その後、状況が変わりまして、いまは全棟に拡大してやっています。ですのでもうしばらくお待ちいただいて・・」と僕が言い終らないうちに、奥さんが
「三島さん、もうわかりましたの」と、つぶやくような声を出した。
「は?」様子が変だ。奥さんは何かを言おうとしている。
「わかった、といいますと?」
「わたしたちね、やっとわかったのよ。最初から少うし、気になっていたんだけど、鈍感だったのね」奥さんは自嘲ぎみにふふっと笑った。僕はじわっと身体がこわばってくるのを感じた。
「あなたが署名してくださいって来られたの、わたしたちがビラを撒いた直後だったでしょう?あのときにすぐ気づくべきだったんだわ」
奥さんの眼光が鋭くなった。僕は読めたような気がした。
「大山さん、僕は最初っから1人で、この署名運動を思いついたんですよ。理事会から頼まれたわけじゃあありませんよ」
「いいんです。もうわかっちゃいましたから。あのとき、あなたに任せずに、自分達でE棟集会を開けばよかったのよ。そうしなかった私達が愚かだったのよ」
「それは誤解です。僕は瀬戸さんとも一切相談していません。それどころか、あのビラをみて、まず誰よりも大山さんに相談すべきだと思い、最初にお伺いしました」
「うそよ!あなたはまず森さん、平林さんの署名をもらい、そのあと私達のところへ来たじゃないの。道をつけてから来たじゃないの。わかっているのよ」
「それは、そうですが…」マズい。なんとかしなければ。この人は、僕が理事会(あるいは瀬戸氏)とグルになっている、と疑っている。そしてそれを告発しようとしている。しかし、僕にはそもそも、もしそれが事実だとして(事実ではないのだが)なぜ大山さんがそれを告発しようとするのかがわからなかった。佐野や須崎らの建替えグループなら、まだ話はわかる。「理事会は白旗を掲げたはずなのに、理事以外の住民を抱き込んで署名運動をさせ、逆転しようと企んでいる」と考え、そのことを暴露することで動きを封じようとするならわかる。しかし、大山さんは修復派なのだ。瀬戸氏とは、震災の年、2人3脚で復興をすすめてきた張本人だった。なのになぜ、それを阻止しようとするのか?僕はわけがわからず、呆然と突っ立っていた。
「三島さん、わかった以上、わたしたちは、わたしたちのやり方でやります。あなたは当然、私が止めてもやめないでしょうけれど」
「大山さん、どうか思い直してください。E棟が1つにまとまるかどうかが、このマンションが復興できるかどうかの分かれ目なんです。一緒にやっていくことはできませんか?」
そう投げかけてみたが、奥さんは鋭い眼に薄笑いを浮かべたまま、階段を昇っていってしまった。僕は体中の力が抜けたようになった。
8月のなまぬるい風が、いつまでも開けっぱなしの玄関から流れ込んできた。
 

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