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[第2部 復興](3)

署名運動


お盆休みになった。
月曜日の朝10時。中島さんにチェックしてもらった「E棟集会の召集要望書」を封筒に入れて脇に抱え、玄関を出る。手にはマンションの各戸の番号と区分所有者の氏名が書かれた「一覧表」を握っていた。エレベーターで最上階(7階)まで上がり、そこから1階ずつ降りながら、賛成者のなかでも“手固い”といわれる人達の家を順に訪問することにした。目標は15名。誰が“手固い”かは、前日の日曜日に池谷さんがうちに来て、教えてくれた。
「三島はん、署名やるらしいな」
日曜日の午後、玄関を開けると、池谷さんがいつものように何の前ぶれもなくしゃべり始めた。慌てて玄関の中に招き入れると、池谷さんは持ってきた「一覧表」を僕に見せた。表には赤ペンで、◯、△、×で各戸が識別されていて、どこを回ればよいか、一目瞭然になっていた。僕がいままでのいきさつを説明すると、そんなことはわかっとる、という風にうなずいて、
「15名くらい、すぐや。この地図の◯印の家を回ったらいい」
僕は1つ腑に落ちない箇所があった。
「池谷さん、どうして大山さんは△なの?」
「ああ、あそこなあ、ちょっといま理事会ともめとんや」
「へえ、そうですか?でもこの間、公開意見書、とかいって自ら運動を起こすような感じの文書がポストに入っていましたよ」
「だから、あの人は昔っから修復派なんや。そこは一致しとるけどな。なんや理事長とそりが合わんらしい」
「瀬戸さんと?意外だな」
「そやからまあ、3番目くらいに行ったらええ。あんたが行ったら機嫌直しよるかも知れんよって」
 
なんだかよくわからなかったが、ともかく池谷さんの忠告どおり、僕は7Fの森さん、6Fの平林さん宅をまず訪問し、そのあと5Fの大山さん宅へ行くことにした。森さんは僕よりずっと背が高く、やせ型で穏やかな性格の人だ。すでに会社を退職されており、時々和歌山あたりまで海釣りに出かけ、釣ってきたカレイを息子がバケツごと貰ったこともある。このマンションには建設当初(1975年)から入居されており、最も古株の一人である。無論、この20年の間に何回か理事を経験されている。玄関で呼び鈴を押すと、ご主人が出迎えてくれた。
「やあ、どうも。さっき家内が電話もらったときはちょっと留守をしてましてね、いま戻ってきたところです」
「すいません、突然で」
「さあさ、奥へ。そこ、右に曲がって。あ、ここの部屋割り、ご存じですよね?お宅と一緒のはずだ」
確かにうちと一緒で南と西にアルミサッシがあるのだが、窓や戸が開けられて両方から玄関に向かって夏風がびゅうびゅうと吹き込んでいる。ここは7Fで近所の建物の高さを遥かにしのいでいるので、うち(3F)と違って風通しが非常に良いようだ。そうやって風に吹かれていると、なんだか心の中まで掃除をしてくれるような気がする。しばらくすると台所から奥さんがお茶を持って来てくれ、3人でリビングで話を始めた。
「家内から聞きました。三島さん、署名を集めるそうですね」
「はい。ご承知のように、このマンションはいま、修復か建替えかの選択を迫られています。ところが建替えは非常に難しいということが段々わかってきました。春のアンケートで、建替えの経済的負担には耐えられない、と答えた人が50名もいる。また、敷地が一部芦屋市にはみ出しているので、高さ制限の関係で、その部分は7階建てを5階建てに抑えないといけないこともわかっています。そこに住んでいる20戸ほどの人達をどうするのか。また、一旦更地にして建て直すとなると、周囲の住民の同意が必要です。近隣の方々全員に印鑑をついてもらわなくてはいけない。こうしたことをすべてクリアしなくてはいけないのですが、建替え希望者の中からは、具体的に“こうしましょう”という提案は何一つ出てこない。単に修復は嫌なので、理事会の足を引っぱっているだけです。そういう行為をこの1年間、延々とやり続けてきた。その結果がこの間の総会です。このままではこのマンションはゴーストタウンになる。大げさではなく、かなり多くの人が、このマンションを売却できないまま、すでに新しい住居を確保して出ていってます。出ていける人はいい。問題は出ていくこともできず、天井が折れたまま、あるいは床が傾いたまま、不便な生活を強いられている人、あるいは近所の賃貸マンションに住んで、2重ローンに苦しんでいる人達です。要は、このE棟で、17名の反対者のうち、4名が賛成に回れば、マンションは復旧に進めます。そのためにE棟の集会を開きたい、ということです。」
「三島さん、よくわかります。署名でもなんでもしますよ。おそらく大半の住民がそう思っているでしょう。反対しているのは一部の人間だ。E棟は、一番東側の列以外はほとんど無傷ですよ。三島さんのところもそうでしょう。須崎にしろ、佐野にしろ、やられてないんだ、ちっとも。だから被災した人の本当の苦しみがわかっていない。雨漏りがしたり、床が傾いたままだったりする人達のことが。自分達の資産価値のことばっかしに気がいってる。マンションをピカピカの新築にして、資産価値を上げる、そりゃそのほうが良いに決まってる。私だってそうしたいが、マンション全体のことを考えれば、誰かが折れなきゃいけない。エゴを捨てなきゃ。結局、そこでしょう。」そう言いながら森さんは僕がもってきた要望書に署名し、印鑑を押してくれた。
平林さんも玄関で同様のことを述べられ、その場でこころよく署名捺印をしてくれた。
そしてその後、僕は大山さんの家を訪問した。
 
大山さんとは、毎朝家を出るときに階段で時々会うことがあるので挨拶をする程度の面識があった。予め電話で約束してあった時刻に玄関の呼び鈴を押した。しばらくして玄関が開き、奥さんについて僕は中に入った。薄暗い廊下を歩くと南側のリビングが現われ、ご主人がいた。僕は挨拶をし、椅子に腰掛け、さっき森さんに説明したことを繰り返した。大山さん夫妻は時々うなずきながら熱心に話を聞いてくれた。僕は封筒から、例の大山さんが書いた「公開意見書」を出して、2人の前に広げた。
「僕が今回の署名運動を考えていた矢先にこれが届きまして、まったく同じ考えの方がおられると知りました。それで今日は是非お訪ねしようと」
「ええ、同じですな。まあさっき家内とも話しておったんですが、若い人が出てきたんなら、若い人に任せようかと」
横で聞いていた知的なマスクの細身の奥さんも
「ほんと、この間の総会がうまくいかなくて、それで私達、もう居ても立ってもいられなくなったんです。で、主人を焚きつけまして、なにかできないか、自分たちでとにかくこのビラを書きましてそれをコピーして私がE棟全部に配りました。本当は理事長さんに渡して、理事会から各棟の掲示板に掲示していただきたかったんですけれど、理事長さんに拒否されてしまいましたので」
「えっ、そんなことがあったんですか?」
「ええ・・もう私達、理事会を信用していませんの」どうも変な雲行きだった。ご主人が口を開いた。
「いやまあ、三島さんにお話ししても仕方のないことですが。とにかく我々は・・あの震災当日から大変だった。住民が、理事長なんとかしてくれといって押し寄せてくる。エレベーターは大丈夫か?だの、玄関が開かなくなった、だの、救援物資はいつ来るのか?だの、もうひっきりなしに電話がかかってきた。ここへ直接訪ねてくる人もたくさんいた。それが一段落したと思ったら、今度は建替え/修復論争です。私は一貫して修復論者だが、それをテレビのインタビューで答えたら、オフレコのはずが放映されてしまった。そうしたら須崎氏とかの建替え派連中が毎日のように押しかけてきて・・もう口で説明できないような目に遭った。電話も毎晩のようにかかってきた。今回もビラをまいたら、早速かかってきましたよ、手を引け、ってね。だがそんな脅しに負けるわけにはいかない」

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