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読書メモ 『「共感」へのアプローチ──文化人類学の第一歩』

読書メモ:渥美一弥, 2016, 『「共感」へのアプローチ──文化人類学の第一歩』春風社

文化人類学を学ぶ上で、事例も踏まえてわかりやすく書いてあるなと思う。特に第1章。


第1章 文化 なぜ生まれた子供に「奴隷」と名づけるのか?

異文化を比較して考え、その「異なり方」を理解していこうとする捉え方こそ「文化人類学的なものの見方」の始まるのである p10

第2節 文化人類学の2つの研究方法
ー「通文化比較」と「全体的アプローチ」

「文化」の研究の基礎には、「比較することによって『文化』を理解する(通文化比較)」という方法と「全体的に見ることによって『文化』を理解する(全体的アプローチ)」という二つの方法があるのだ。 p10
まず、「通文化比較」とは何か。ある現象や事実は、それと異なったものと比べてみて、初めて把握できる。p10
このように、ある現象や事実を認識し理解する基盤に「比較」という行為がなされている。p10
もう一つの方法は、「全体的アプローチ」あるいは「総体的アプローチ」と呼ばれている方法である。前述の比較が「文化全体に及んでいる」という点に特徴がある。p11

第3節 分解人類学者による「文化」の定義

ピーコックの指摘によれば、文化はある集団における「当たり前」であり、そのルールに反した行動をとると「感情的な反応を引き起こす」ということである。本書では、この定義に沿って文化を考えていくことにする p15
重要な点は、自分が見ている現象は、自分の「文化」という自明のルールを通して見ているという自覚である。ページ19

第6節 文化人類学の視点
ー「自文化中心主義」と「文化相対主義」

「自文化中心主義」と「文化相対主義」

自分の文化を絶対の基準として異文化の現象を判断することを「自分化中心主義(エスノセントリズム)と言う。一見これは異文化理解からは程遠い状態のように思われる。
 しかし、本書では、異なった文化に接したとき、それは「変だ」「汚い」「遅れている」「行儀悪い」などと感じることを否定したり、隠すべきではないと考える。異文化に接し、それに対する否定的な感情が沸いた時、「それはなぜなのか」「なぜ彼がそのようなことをするのか」と考え、「自分はなぜ彼らの文化を変だと思ってるのか」と自問する契機とすれば良いのである。 むしろ、異文化に対するはじめの否定的な気持をそのまま放置して、それに疑問を持たないことの方が問題である。真の自分化中心主義とは異文化に対する「無関心」のことである p20-21

<コメント>
上記引用部分、多様な人と共創していく上でのマインドとしてとても重要。!

筆者の強調したい「文化相対主義」は異文化と自分化を等しい距離から見つめ異文化を理解しようと言う姿勢である。p21
第一には、全ての文化は優劣で比べるものではなく対等であり、ある社会の文化の洗練度合いはその外部の社会の尺度によって図る事はできないとする倫理的な態度である。p21
第二には、自分化の枠組みを絶対とせず、相対化して、その相手側の価値観を理解する。p21
本書でいう、認識論的、方法論的態度としての文化相対主義とは何か。簡単に言うと、「『文化』に対する途絶えることのない好奇心」だ。p22

第7節 異文化理解のプロセス

全体的アプローチを使うという事は、彼らと生活をともにして名前の付け方以外のことにも目を向けて徹底的に調べてみることである。行ったこともなく会ったこともない彼らのことを、産業化された日本に生きている私たちが想像するのは大変だが、ともかく考えてみよう。p27

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p30の図

<コメント>
 1章が私にとって、文化人類学に触れる上で、とてもイメージが湧いた章。p30の写真の図は特に流れがイメージできる。
 真の自分化中心主義は無関心。どうせ文化は異なってる、本当に理解できるわけがないというメンタルモデルが背景にあるのだろう。
 文化人類学について知らなくても、文化相対主義のマインドセットを持っていて、さらに実務として成果を出している人はどうやって身につけてきたのだろう。


第2章 ジェンダーーなぜ「女医」というのに「男医」といわないのか?

文化は分類すること
普遍的で絶対的な分類はない。

「文化」によって「分類」され、「文化」の中に埋め込まれた男女の性差を対立した二項目と考えると、それが、他のシンボルにおける二項目の分類に置き換えられる。p37
すなわち、日常使う言葉の背景にある「文化」は個人の実際的な経験以前に存在していて、その「文化」と個人的な経験との違いを認識していても、「文化的ルール」は生き続けるのだ。p51

第3章 婚姻ーなぜ父は娘と結婚できないのか?

婚姻について、第一に言えることは、婚姻の基盤に「文化」が存在すると言うことである。そして「文化」が集団を「分類」する。p60

マリノフスキーは本能と言う概念を使わず機能という概念を主張した

人類学における機能主義とは、人類学者自らによるフィールドワークで集めた資料を基に、現存する「文化」を、相互に関係して動いている諸要素の集合体として捉え、異文化の慣習規則や諸現象を相互の機能的連関で理解しようとする学問的方法論である。p63
人間が一人で生きていないように「集団」も一集団だけで存在しているわけではないのだ。従って、個人が他者との「関係」で生きているように、「集団」も他集団との「関係」の中で生きているのである。p64
レヴィ=ストロースは「文化」を構成要素に分解して、その要素間の関係を整理統合することで「文化」を理解しようとする学問的方法論を主張した。これを「構造主義」という。彼は、個人間の「関係」や集団間の「関係」を「構造」と呼んだ。p67

第4章 通過儀礼ーなぜ「子供」と「大人」を区別するのか?

どこにも区切りのない人間の一生に区切りをつけて「子供」や「大人」と決める事は、生物学的な根拠によるものではなく、極めて社会制度的であり、「文化」的な行為なのだということがわかる。p84
様々な社会で「きたない」を決めているのは、そのモノがどこに置かれるのが「当たり前」とされているかを基準とする。すなわち、その社会の「自明な規則の体系(当たり前と思うルールの体系)」によって決まるのである。だから「文化」による「文化の秩序」によって、そこから「はずれたモノ」は、「きたないモノ」となってしまうというのだ。p85
「きれい」とか「きたない」と感じるものは、その「モノ」に本来備わった性質ではなく、その「モノ」が置かれた条件、周りとの「関係」によって決まる。p86


<コメント>
区切ったり分類したりすることで文化を作り出す。
差別も生み出す?
→分類から外れると?

大学を卒業するということは、通過儀礼としての働きを持っている?

昔、いつからが大人なんだろうと考えたのを思い出した。成人式があると大人?「もう大人なんだから」と言われる違和感。なぜダメ?
子どもは大人よりも優れてるの?

第5章 環境と文化ーなぜ「自然」と「人工」を区別するのか?

すなわち、あらゆる道具は、動物がその身体の一部または、全部の形を変えて環境に適応したように、人間もその「身体の機能の延長」として、作り出してきたモノである。p113


第6章 信仰・信念体系ーなぜクリスマスを祝ったあとに初詣に行くのか?

文化人類学的に見て、この批判的言説の最も致命的なところは、ある集団を指して「〜人(族)は、〜だ」と断定してしまっているところである(これを修辞学的全体主義と言う)。p125
しかし、1つの「カミ」だけを信じなければいけないというのは、誰が決めたことなのだろうか。p126
そうすると、今の例において、「ある行為」を「宗教」であるとか、「慣習」であるとか決めているのは、その行為を見ている人であり、その行為者自身ではないということがわかる。p129

<コメント>

修辞学的全体主義は、自分の経験を一般化していく際に起こりうる?
「若い人は。。。だ」と主張するのも、自分の周辺だけで起きている出来事を一般化しようとしている時に起きる。
この時に、それって本当?とメタで見えるかどうか。思考停止していない?

第7章 医療と文化ーなぜ熱が出て咳をすると「風邪をひいた」というのか?

文化人類学から見た医療について

医師で文化人類学者のアーサー・クライマン(1996)は「病気(sickness)」を「疾患(disease)と「病い(illness)」という二種類に分類している。クライマンの定義では、「疾患」とは生物医学的な視点から構成された現実を意味する。それに対し「病い」とは病者とそれを取り巻く人々が症状や苦しみを受け止め、対処し、生きていく、人間に本質的な経験である症状や患うこと(suffering)の経験であるという。p152


社会に埋め込まれた「自明で極めて影響力のある認識の仕方と規則の体系」が人間の行動や認識を規定し、化学的知識とは別の次元で個人の行動を決定するのである。p154

ドイツとアメリカの「医療」が舞台の事例

抗生物質と泥浴について
1:泥浴に対する認識の違い
2:抗生物質に対する認識の違い
3:自分の見解を「自明」のこととして、他方の見解についての説明を求めていない

「医療」は必ず「文化」の影響を与える。p159
異文化に接したときに「変だ」と思うのは仕方がないが、「なぜ?」と問い続ける姿勢が必要なのである。p167
「なぜ病医の原因のほとんどを妖術のせいだと考えるのだろう」と質問すれば、産業化社会に住む人々の多くは「医学が発達していないから」とか「未開人だから」と答えるかもしれない。そして彼らの言説は間違っているというわけだ。p17
これも第1章で述べたように「変だ」と思って構わないのである。その代わり、彼らがなぜそのように考えるか、まずは理解しようと努めよう。p185

※メモ。文化進化論になりがち?

<コメント>

繰り返し主張されているのが、
異文化に出会った時「変だ」と思って構わない。そこで終わらず、「なぜ?」と問づつけ、なぜ相手はそのように考えるかを理解しようとすること。
これが、筆者がこの本を通して、読み手へのメッセージになると考える。

・自分化中心主義ではなく、他文化中心主義もある?他文化のほうが素晴らしい!


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a) 引用(原文そのままの抜き書き)

b) 自分流の要約(原文を自分なりに要約したもの)

c) 自分のコメント(原文“についての”コメント)

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