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「誰が言うとんねん」を引き寄せる三ヶ条

2022年も残りわずかということで、いつか文を見直す可能性のある自分のために文章を書き留めておこう。
2022年の一年間を通しての気づき。発見。再認識。

誰からも「誰が言うとんねん」とは言わせない人生に。
誰が言うとんねんと言われる人生になることの恐ろしさを痛感しまくる日々。。。

誰かを評価した時に食らう「誰が言うとんねん」

何かに異議を申し立てた時に食らう「誰が言うとんねん」

アイデアを出した時にさえも食らう「誰が言うとんねん」

基本、誰が言うとんねんの連続で世の中は形成されている。

お笑い大好きオヤジがTwitterで堂々と披露する的外れお笑い分析も、まさしくその類のもの。
「いやいや、誰が言うとんねん!」とツッコまれ恥をかいてしまっているのだが、「言論の自由」「SNSとはそういうもの」という盾に守られ続ける負の仕組み。

そうはなりたくない。そうなったら終わり。
誰が言うとんねん枠にぶち込まれたら、もう後戻りできない。
そんなことを強烈に感じてしまった2022年。

では、なぜ「誰が言うとんねん」と言われてしまうのか?なぜ、そう思われてしまうのか?
その根幹には何があるのか?

そこには3つの条件があり、この3つの条件が1つでも当てはまる人間は、どこかで誰かからの「誰が言うとんねん」を食らってしまっている。

まずは
①自分の実力で勝負しないこと。

自分の実力で勝負しない人…
実際、かなりの人数存在しておりますが
大抵、ここに至る思考回路の根源は
実力で真っ向勝負することによって、負けてしまう可能性を危惧していることにある。
たしかに、初めから戦わなければ負けることは一生ない。
皮肉でもなんでもなく、この考え方は非常に賢い。

勝負をすれば結果が伴い、結果が伴えば、身も蓋もなく評価を下される。
初めからそんな過酷なリングには上がらないという賢明な判断。ゆえに、評価は上がりもせず下りもせず。

だが、この生き方は長持ちこそするが、なかなかの誰が言うとんねん砲を浴びることとなる。
仕事の中で何かしらの意見を言えば、「いやいや、誰が言うてんの?」と白い目を向けられる可能性が高まるのだ。

自分の実力で真っ向勝負もできないくせに、何を一丁前な口を叩いているのか…?というあまりに現実的な冷たい視線を向けられがちだ。
そのへんの対応に関して、周囲はとことん容赦なし。
ふとしたタイミングで、普段勝負していない現実が露呈されることになる。

ここで皆さん勘違いしがちなのが、、、
見られているのは実力の有無ではないということ。

実力の有無には才能やセンスの問題もあり、そこを咎められるのは不憫にもほどがある。
できないものはできないし、向いていないものは向いていない。
大切なのは、実力そのものではなく勝負できる姿勢。

そんな生き延び方をしている格好悪さが
誰が言うとんねん!を運んでくるのだ。

実力の有無やセンスの有無ではなく、もっともっとシンプルな人間と人間の話。
仮に実力不足だとしても、実力勝負で戦っている人間の話なら、人は聞く耳を持ってくれる。

媚びている人間に魅力を感じない理由の根本は、ここにあります。

さらには
②誇り高くないこと。

誇り高くない人間は、ほぼ全員が「誰が言うとんねん」砲のどデカいやつを食らっている。

例えば、YouTubeチャンネルを開設しているお笑い芸人は多いが、自らのことをユーチューバーだと名乗るお笑い芸人はほぼ皆無。

なぜなら、プロのお笑い芸人がYouTubeチャンネルを開設したからと言って、それはユーチューバーへと転職をしたわけではない。
ユーチューバーとは肩書きとして呼ばれる名詞なので、カジュアルに使ったとしても実際は大きな意味を持つ。
自らをユーチューバーだと名乗ってしまえば、事実上のお笑い芸人引退を意味している。

完全にプライドを捨て、お笑い芸人が自らをユーチューバーだと名乗り始めたら全てが終わるのだ。
大袈裟な話ではなく、ここの肩書きの意味合いは非常に大きい。
実際、何をやろうが何を語ろうが、「誰が言うとんねん」を食らい続ける過酷な人生が待っている。

いやいや、それはユーチューバーを下に見すぎている!と言われそうな時代であることは百も承知だが、ユーチューバーがプロのお笑い芸人より表現者として下なのは確実であり、ここに好みの要素は1%もない。

お笑い芸人とは特殊技能を持っている選ばれし人たちであり、笑いに特化したプロ集団なのだ。
内輪ウケ、地元ウケ、友達のような距離感を武器にしているユーチューバーとは正反対の生き物がお笑い芸人である。

芸人とユーチューバーを比べて何ちゃらかんちゃら言う輩が時折いるが、マジでナメんのもいい加減にしたほうがいい。
実際、プロの芸人とユーチューバーは真逆に位置している。

弁護士の人がYouTubeをやっていたり、美容師の人がYouTubeをやっていたりもしますが、この人たちはユーチューバーなのでしょうか?
この人たちは弁護士であり、美容師であり、
彼ら彼女らをユーチューバーと呼ぶ人は皆無。

その理屈の裏側には、彼ら彼女らが一芸を持っている人たちだというベースがある。
何かしら一芸に秀でた人が表現の場や得意なことを活かす場としてYouTubeというプラットフォームを使っている。
この場合は誰もユーチューバーとは呼ばない。

それはお笑い芸人とて同じである。
一芸に秀でたお笑い芸人がYouTubeというプラットフォームを使ってプロの芸人の技を表現しているのだ。

裏を返せば、一芸には秀でていないけれど、YouTubeチャンネルから生み出される収益で生計を立てている人のことをユーチューバーと呼ぶ。

これは決して揶揄ではなく現実であり、逆に言えば一芸に秀でていないのに人気者になれることも、動画編集やサムネイル作成などをやり続けられることも大きな才能である。
人気に関しては大人には理解できない魅力があり、それに対してとやかく言うつもりは一切ない。

しかし、M-1チャンピオンいわく「さすがに見てられない」とのことであり、これが30代以上の大人の本音なのも一方で事実。
「警察に捕まり始めてる!」がウケているポイントではあったが、ネタの途中にさりげなく差し込まれている「さすがに見てられない」が実際は1番深く本質を突き刺している。
この漫才が笑えるということは、みんな言いにくいけれど本当は思っていた本音だということ。
老害だと言われようとも、30代以上の感性はこうなって当たり前。多感な時期に良いものをたくさん見てきた大人の目が肥えているのは仕方ないのだ。

少し話が横道に逸れましたが、芸人が自らをユーチューバーだと名乗ることは自らの誇りを失ったことを意味する。

そもそも一芸に秀でた選ばれし人間だったはずが、
「自分は一芸に秀でていません」と自己申告しているのと同じ。

ハッキリ言って、そこまで簡単にプライドを捨てる行為は卑怯者のやりかたと言わざるをえない。
何でもかんでもプライドを高く持つ必要もないが、最低限持つべきプライドはある。

自らをユーチューバーだと名乗ればハードルを下げる効果もあるし、言い訳もしやすくなる。
スベろうが、品のないことをやろうが、バズるためなら何でも利用しようが、若いトップユーチューバーに媚を売ろうが、
「だって俺ユーチューバーやで」という卑怯な返しができてしまうのだ。

そんな人は勝手に落ちぶれてくれて構わないのだが、誰が言うとんねん!を全身に浴びることにはなる。
芸人のことを語ろうが、お笑いのことを語ろうが、
お笑い賞レースを語ろうが、どんなことを語ろうが
いやいや、あなたユーチューバーでしょ?
素人がプロみたいな顔して何を言ってるの?
というツッコミを食らうことになる。

これがプライドを捨て去った副作用であり、この現実からは逃れられない。

プライドが高すぎるのも考えものだが、プライドがなさすぎるのは本気で救いようがない。
そこまでプライドのない人間の話、、、
誰が聞いてくれますか?
聞いてくれるのはコロッと騙されている無知で感性の鈍いチャンネル登録者のみ。
一方で、その囲い込みこそがユーチューバーの真骨頂であり、その真骨頂が諸刃の剣となっている。
ユーチューバーが目利きの人間から評価されない原因を作っているのもユーチューバーなのだ。

さあ

自分の実力で勝負しない人。誇り高くない人。
ときて、
「誰が言うとんねん」を食らう3つ目の条件…

それは
③責任感がないこと

責任感の有無とは、大抵の場合結果論である。

責任感のなさとは、何かしらが起きた時にこそ露わになりますが、最終的な局面で人間として問われるのは責任感の有無。

私は2020年、汚い大人たちからきっちりとハメられ、滅多撃ちに合ったのですが
100歩譲って、それは仕方ない。彼らにも事情があり、大きな会社が絡んでのトラブルになれば、フリーランスの人間に押しつけて逃げることなど、社会における"あるある"かもしれません。

ただ、そんな理不尽を飲み込んだ私に対して
謝罪の一つもないのは心の底からどうかと思っている。
謝罪があったとしても許すことは当然ありえないのだが、それでも謝罪があるとないとではこちらの気持ちも変わってくる。

私は人を信じてしまい、無防備だったからこそきっちりとハメられました。
世間知らずだったのは自分の落ち度だったとしても
いざという時に責任感を持てない人間には心底納得ができない。

押しつけやすい人間に責任を押しつけて逃げる。
ここまでは社会の理不尽として飲み込みましょう。
しかし、その後の対応に責任感がなさすぎるのはいかがなものか?

水面下でもやれることはあるだろうが、それは絶対にやらない。
おそらくは、彼らが悪であることを公式的に認めてしまうことになるからだろう。
もちろん、その気持ちは分からなくもない。
悪が自らを悪だと認めることが苦しいのは理解できる。

だが、本当に責任感のある大人ならば、どれだけ苦しくても認めるはず。どれだけ汚い生き方を選択してきた人生だとしても、罪を償うことはできるのだ。
それができるかできないか、ここに生き様の分かれ目が存在しているのだろう。

社会的ポジション、大手事務所との付き合い、出世との兼ね合い…
様々な思惑と事情が交差しているのは百も承知。

それでも、責任を取れる覚悟と勇気は必要だろう。

人のことをハメて陥れることに成功すれば、手を汚さずして責任は回避できる。
誰かのせいにすることは、世界で一番簡単なことなのだ。

いろんな注意をされ、いろんなアドバイスをいただき、様々な角度からの説教をしてくれました。

ありがたい言葉だなと、、、
騙されていたとも知らずに私は純粋に受け止めておりました。

責任感のカケラもない冷酷な人間だったと知った今
心の底から大きな声で言いたい。

おい!誰が言うとんねん!と。

自分の力で勝負しない人たちや
プライドのなさすぎる人たちが
そうなってゆく大きな理由の一つ。。。

責任感の所在を明らかにしたくないのだと知りました。

誇り高くいれば
自分の力で戦うことを余儀なくされ
自分の力で戦えば
勝敗に責任が付随していく。

そんなカラクリが分かったからこそ、自分は真逆へと走り続ける。

自分の実力で勝負し
誇り高く生きていき
責任感を持つ。

これら3つを掲げて2023年へと向かおうと思います。

綺麗事ではなく、やっぱり真面目に生きることが1番近道だということ。
どんな理不尽な目に遭っても
誠実に戦い、誠実に向き合い、誠実に生きる。

誰が言うとんねん!の反対語を誰かに言われる人生を目指して。

ちなみに、誰が言うとんねん!の反対語は

「言葉に重みがある」

言葉の重みを作るのは生き様次第。

あんな仕打ちを受けてなお
ひん曲がらず真っ直ぐ戦う私に
私自身が惚れ直す日を期待している。


ありがとう2022年!

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