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<閑話休題>定年準備(20年じゃ,足りないよ)

来年3月末で,40年近く勤めた職場を定年退職する。いわば,「卒業」ということだ。これまでの人生を振り返れば,小学校の卒業は,あまり感情に響かなかった。多くの仲間とそのまま中学校に進学するということがあったからだろう。

だから,中学を卒業するときは,かなり感情的になった。特に3学期は,授業がない日があって,受験先の高校に願書を提出しにいったときだった。遠出に不慣れな中学生を心配して,先生は提出先の高校が近い仲間ごとにグループを作らせて行ったのだが,最後の目的地の高校に行った後,ちょうど冬の夕暮れがとても綺麗だったことを,今でも覚えている。これまでに東京で見た最高の夕陽だったと思うのは,自分の気持ちが夕陽のように傾いていたからだろうか。

高校卒業の時は,もうクラスの仲間達と会う機会は簡単に訪れないことを自覚していた。そして,もちろん3学期は授業がほとんど無く,通学をしない日もあったように思う。大学進学があるとはいえ,成人年齢に近づいたこともあって,何か保護された子供時代から一気に保護されない大人として社会に出て行く気分になっていた。

大学4年は,卒論に励むとともに,就職準備に明け暮れた。そのため大学生活という感じはかなり薄れていたと思う。そして,そうなることにとても違和感を覚えていた。せっかくの大学生活なのだがら,4年間みっちりと楽しませて欲しいと思っていた。そうした1年が過ぎて,今度は間違いなく1人の社会人として厳しい社会に放り出される時を迎えることになった。

だから,卒業してからは毎日がとても悲しかった。また大学生活に戻りたかった。学士入学ができないか真剣に探したこともある。大学院に進学した友人がうらやましかった。金を稼ぐよりも,学問の世界に入り浸っている方が,より楽しいものだと信じていた。

でも,現実は常に厳しい。生きるため,生活するためには,金を稼がねばならない。自分の意見や理解なんて問題にされない。ただただ,上の指示に従ってその命令を忠実に実行するロボットになることを強いられてきた。この世界には,僕が大学で打ち込んだ文学なんて,無駄にしか思えなかった(ただし,文書を書く能力だけは生かすことができたが)。180度反転した世界で,生きる術を学ぶことが僕の指命になった。

そういう世界だったので,僕の大好きな文学や芸術の世界は,全て余暇での楽しみだけに封印した。仕事の中で,文学や芸術を話題にすることは決してなく,また自分の頭の中から消すようにしてきた。つまり,本当の自分を偽ることを40年間続けることで,社会人として金を稼ぐことをやってこれたのだ。これが,楽しかったわけはない。まさに苦痛の40年間だったのだ。

そうした生活も,あと残り5ヶ月の勤めになる。そして,長く勤めた後にはいろいろな手続きがある他,何よりも気持ちの整理のようなことが必要になるらしい。そのための細々とした資料(ビデオ)が,希望者に送られてきた。

その最初のビデオには,短いドラマがあって,(私と違って)仕事一辺倒だった男性が,長く家のことを顧みなかったために,奥さんから離婚されそうになりながら,定年後の生き方を見つけることで,第二の人生をやり直すというストーリーだった。(ちなみに,奥様にこの話をしたら,「あなたは一人暮らしの経験があって,自分で(家事が)何でもできるから安心ね!」と言われた。念のため注釈すれば,これは「定年後は一人で暮らしてね!」という意味ではなく,「定年後に,何でも私に頼ることはないから,離婚する必要は無いわ!」というポジティブな意味です。)

このドラマは,(海外にいるので,日本のドラマを余り見ていないこともあって)それなりに面白かったのだが,主人公が,定年後に何か生きがいになることを見つけることを,強く勧めていることが興味深かった。

その理由として,定年後の人生は,平均余命からすればだいたい20年は続く。人が会社などで20年勤務する時間は,必死に働いているうちにあっという間に過ぎてしまう。しかし,生活できるか否かは別として,定年後にまったく働かないと仮定すれば,それまで働いていた時間の全部が,余暇ということになってしまう。

余暇とは,働いている人にとっては貴重な時間になるが,それが生活する時間の全てになってしまうと,人は苦痛になる。人は,勤勉であるなしに関わらず,何もない生活には耐えられない。これは,コリン・ウィルソンも述べている真理だ。つまり,人はなんとかして暇つぶしをしようとする。(例えて言えば,犬に屋外の散歩が必要なのと同じだ。犬は散歩しないと死んでしまう。人は余暇だけだと,生きる力がなくなってしまう。)

多くの人は,その生活の大半を,仕事をすること,仕事関係のつきあいをすることで,時間を浪費し,その結果使用可能な余暇の時間を埋めてきたので,それらの仕事関係が全てなくなってしまうと,そのまま反比例して増大した余暇の大量な時間を,つぶせなくなってしまうのだ。

でも,と私は思う。私は,余暇が大好きだ。仕事よりも余暇がはるかに好きだ。仕事している時間よりも,(今もそうだが)こうして好き勝手な文章を書いている「余暇」が楽しいし,この時間がいつまで続いても,私にはまったく問題がない。

文章の構想は,いくらでも湧いてくるし,ひとたび何かの文章を作れば,その後はその彫琢=推敲(私は,文章を磨いていく作業を,彫刻家が粘土で作った彫像から,少しずつ材質を削っていくイメージで捉えている。慎重に,近くで見て,遠くから見て,前後左右から見て,自己のオリジナルの構想との差異を考えながら,文章の醸し出す世界に没頭する)に時間をかける。さらに,それをプリントする際には,標題の大きさや,文字のタイプ,段落構成,さらに挿絵(画像)まで,いろいろと考えて設定する作業が待っている。いくら時間があっても足りないくらいだ。

さらに,もっと時間のかかるものがある。読書だ。古今東西の人類の人文科学系知識の全てを網羅したい。古典と呼ばれる文学作品を多く味わいたい。英語圏作家のものは,原文で読みたい。できればフランス語圏作家も原文で読みたいので,フランス語読解力を向上させたい(ランボー,ヴェルレーヌ,マラルメ,ヴァレリーを,感情込めて音読したい)。旧約聖書,新約聖書,クアラン(コーラン),全ての仏教経典を読破したい。千一夜物語(別名「アラビアンナイト」または「シエラザード」全訳版),ホメーロス「オデッセイア」英語版,ダンテ「神曲」英語版を読了し,その背景を研究したい。美術作品を石器時代から現代まで網羅して鑑賞したい。興味のある映画を見たい。バイロイト音楽祭に行ってみたい。

写真も興味ある(note掲載の共有画像が,結構使用されている。また,最近のちょっと良いなという写真を掲載し,共有します。ただし,一眼レフなどの高級なカメラはお金がかかるから敬遠し,スマホ写真だけですが)。

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わさびとガリしかない,回転寿司

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ゴーカートで公道を疾走

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シーフードレストランのテラスでビール

ラグビーの試合を,できればグランドに行って,行けなければTVで良いので,できるだけ多く見たい。オールブラックスの素晴らしい試合とトライを,沢山楽しみたい。

そして,これらのことを多くやり遂げようとすれば,それなりに経費をかかるから,また,奥様が温泉好きなので,(幸いにご相伴して)旅行する経費もかかる。そしてマンションのローンも残っているので,夫婦の年金だけでは賄えなくなる。その分を稼ぐために,何か仕事をしたい(たぶん,行政書士事務所でのアルバイトが,一番可能性があると思う)。

これら全てをやっていたら,余暇はなくなってしまい,とてもじゃないが,20年くらいで死んでられないと,思うのだ(ちなみに,マンションのローンは,保険金でカバーされるので全く心配ありませんが)。

私にとっての「本当の」人生は,定年後にようやく始められる。
そして,これまでの40年にわたる「偽りの」人生を,精算する時が来るのだ。
こんな,わくわくする楽しい瞬間は,これまでの人生にあっただろうか?

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