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<閑話休題>幸福とか何か

1.自問自答(ソクラテスを気取って)

健康であること?
では,不健康な人は幸福ではない?
最後は,心の持ちよう?

他人から見た幸福と,
自分から見た幸福とは,
いろいろな観点からも,違う。

長い期間の幸福と,
一瞬の幸福とは,
いろいろな意味で,また違う。

マッチ売りの少女は,マッチが燃えている束の間に,幸福を味わった。
そして,たぶん生きていても,辛いことしかないから,
地上の生活に別れを告げることは,むしろ幸福につながることだった。

死ぬより辛いことは,この世の中に,ある。
そのため,死を選択することもある。
しかし,それは幸福を選択したとは言えない。
より辛くない方を選択したに過ぎない。

幸福には,条件があるのだろうか。
他人と比べて,自分が幸福か否かを比べるのは,自己満足の幸福だが,
これは,誰でも簡単にできるし,継続できる(良くないことだが...)。

一方,辛いときに自己満足で幸福を感じるような場合(マッチ売りの少女の場合だ)は,
絶対的な幸福ではなく,一種の宗教的な(現実的利益を伴わない)幸福になってくるだろう。

ところで,仏教の悟りの世界(つまり,恒久の幸福感を得ることだ)は,
常人には出来ないような,厳しい修行をした末にようやく得られるものであり,
凡人には,簡単に到達できない特殊なものだ。

「最大多数の幸福」という言葉がある。
幸福を他人と比較しているのであれば,確率的に幸福と感じる人と不幸と感じる人の割合が50%に近づいてくるだろうから(もしかすると,日本の場合は不幸と感じる人が90%近いかも知れないが),最大多数とするには,相対的な感覚であることからも,自ずと限界がある。
では,幸福に絶対値があるかと言えば,それは無いとしか言えない。
結局,相対的な幸福感に止まるしかないのだろう。

でも,絶対的な幸福の条件とは何か,を考えてみたい。
他人と比較しないこと。
自己満足でないこと。
この2点が条件になると思うが,これを満たす答えは,ずっと見つからないでいる。
そして,
たぶん見つけることはできないと思っている。


2.比較(ワイルドとサン・テグジュペリ)

オスカー・ワイルドの「幸福な王子」と,サン・テグジュペリの「小さな(星の)王子」では,どちらの王子が,より幸せか。また,どちらの王子が,より王子として理想的なあり方なのか。

ワイルドの描く自己投影した王子(の銅像)は,同時に自らのマゾヒズムの極地として,持てる財産(銅像の付属品)を貧しい人々に分け与えるだけでなく,身体の一部(宝石でできた目)まで与えてしまう。少々残酷な姿になってしまうものの,王子としては,実に良くできた品行方正な善意を示している。それが,良いかどうかは,私には判断できないけれど。

サン・テグジュペリは,遠い星から地球の砂漠に来た小さな子供だが,どこか大人の考えを持っている異星人だ。また,王子とは言っても,自分の小さな星のみでの王子であって,地球を含めた他の惑星ではないから,地球にいる限りはたんなる子供でしかない。だから,本当は王子と名称は相応しくないのだろう。ただし,可愛い子供を王子様と呼ぶことから見れば,まさに王子そのものだが。

王子ということでは,サン・デグジュペリよりワイルドの方が王子らしい。しかし,幸福という点から見れば,自己満足の幸福(マゾヒズム)に耽溺するワイルドよりは,子供の心を持ったサン・テグジュペリの方が,王子様のような幸福感を持っていると思う。

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