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<芸術一般>デュシャン、ベケット、キューブリック(チェスについて)

 (もちろん、異論が多々あるだろうが)20世紀最高の芸術家マルセル・デュシャン、20世紀最高の劇作家兼小説家サミュエル・ベケット、20世紀最高の映画監督スタンリー・キューブリック。

 私の敬愛するこの偉大な3人の芸術家に共通するのは、チェスが好きだということだ。たぶん、その強さから言えば、キューブリック(映画の世界に入る前は、賭けチェスで生活していた)、デュシャン(フランスのチェス大会で優勝経験あり)、ベケット(デュシャンには負けたけど、チェスが強かった)の順になると思う。

 チェスの強さと芸術の内容とは、まったく比例も何もしないものではあるが、チェスという遊びの中に、芸術との関係性があると私は直感している。その理由を3点挙げたい。

1.駒の優美さとデザインの自由さ

 将棋と異なり、チェスの駒は、その名称と機能は固定されているが、そのデザインは基本形がある一方、全くの自由だ。だから、大きさや形、さらに例えばナイト(騎士)やルーク(城)は、多種多様な意匠で製作されている。また、全体のトーンを、例えばナポレオン軍のイメージ、キャメロット城の騎士のイメージなどで統一することもできる。つまり、チェスの駒そのものが、素晴らしい芸術作品になっている。

2.駒の三次元的な大きさ

 これも将棋のように、平べったい二次元的なものではなく、チェスの駒は三次元として横よりも縦に大きい体裁になっている。そのため、将棋のように指でつまんで置きなおすという指し方ではなく、指で持ち上げてから置きなおすという大きな動作になるため、より立体的な視点を指し手に与えてくれる。

 また、この立体性は、実際の勝負や読みへの影響は大きいとは言えないものの、将棋盤を上からだけ見る視点ではなく、チェス盤を横や斜め上から見る視点が出てくるため、駒のやり取りにより現実感(実際に兵隊が戦うイメージ。だから、人がチェスの駒の着ぐるみで対戦することも可能になる)が出ている。

3.死んだ兵隊は復活しないこと(リセットできない瞬間の美学)

 将棋は、獲得した相手の駒は「死んだ後に蘇って」味方の駒に寝返る。そして、次の指し手からは、盤面からいったん外れた(死んだ)ことの利点を使って、どこにでも出没(指す)ことができる。このことが、チェスよりも将棋が複雑で、簡単にコンピューター化できない理由になっている。

 一方のチェスは、「死んだ兵隊は蘇らない」から、初心者が心得るべきは相手の駒を多く獲得する(殺す)ことになる。例えば、初心者がチェスを指した場合、最後に残ったのはキング(王)とポーン(歩兵)1個だけという場合も出てくる。互いに相手のキングを追い詰めるというチェスの常道よりも、相手の駒を獲得することに励んだ結果だ。

 私は、ここにチェスのリセットできない瞬間の美学を感じる。人生がなぜ素晴らしいかと言えば、リセットできないからだと私は思っている。だから、将棋のようにリセットし、さらに味方が敵に、敵が味方になってしまうことは、ゲームとしての難しさを増すことになっても、美しさにはつながっていないと思う。そう、チェスはやり直しがきかないからこそ、芸術の創作行為に近く、また芸術そのものになっていると思う。

 こうした、チェスのリセットできない特性=芸術性は、デュシャンにおいては、世界でただ一つの作品が持つ希少性及び独立性と、同時にその作品だけが唯一の個性(ミクロコスモス)を持つことを出発点として、汎用性(マクロコスモス)にまで広がる運動のイメージにつながっていくと思う。さらに、『大ガラス(彼女の独身者によって裸にされた花嫁さえも)』に見られるように、運送途中のミスで生じたガラスのひび割れという「偶然」までも、作品の一部に転嫁してしまう究極の汎用性となる。それは、ジョン・ケージが『4分33秒』という傑作で、コンサートホールの雑音を全て楽譜に閉じ込めたのと同様の考え方だろう。

 ベケットにおいては、『勝負の終わり(End Game)』という戯曲の題名からもわかるように、ベケットは人生の過酷さ、はかなさ、刹那的なものをチェスの中に見ている。いや、人生の中にチェスの厳格な勝負を見ているといった方が正確だろう。それは、映画『第七の封印』でイングマル・ベイルマンが描いた、自らの命を賭して大鎌を持つ死神とチェスをする騎士の姿にも通じる。チェスの勝負は、もはやたんなるゲームではない。死に向かって生きるという、人が抗えない不条理につながっている。そしてその勝負は、常に死神が勝つ(人は最後には死ぬ)という悲劇的結末が待っている。

 キューブックにおいては、映画製作そのものがチェスゲームになっている。『2001年宇宙の旅』を筆頭に、キューブリックの映画は、まるでチェスの駒を操ってゲームを詰めていくように、シナリオ、撮影の構図、モンタージュ(画面のつなぎ方)、音楽の全てを、理詰め(チェス詰め)に従って構成していく。その整然とチェス盤のようにシンメトリーに構成された作品の姿に、そのまるで優れて美しい方程式のような映画作法そのものに、観る者は感動する。それはまた、チェスの定石(ギャンビット)が見事に実行される快感につながっている。

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 そういうわけで、私は若い頃によく友達とチェスをしていた。旅行用の小さなチェスセット(駒が平たく小さいもの)を喫茶店に持ち込んで、友人と何時間もチェスの勝負をやっていた。友達は、実兄が将棋2段の実力者ということもあって、弟である友人もチェスが強く、私は常に負けていた。でも、私は勝負に勝つことよりも、偉大な芸術家のように、チェスを愉しんでいる自分の姿に満足していた。

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