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未来は明るかった。レトロフューチャーの空間へ 〜中銀カプセルタワービル〜

その昔、未来は明るかったらしい。私が生まれる遥か前、万博という国際的大イベントが大阪千里丘陵で開かれた頃の話である。
万博のテーマは、「人類の進歩と調和」。何もなかった丘陵地帯には、動く歩道やモノレールといった先進的な乗り物、各建築家を総動員したかのような豪華絢爛なパビリオンが出来上がり、未来都市の様相を呈していた。
今話題の代々木公園の比ではないレベルの木々を伐採しまくった人工都市で「明るい未来」とは、今となっては笑止千万であるが、高度経済成長の最末期においてはそれがトレンドだったのだろう。

時は経ち、明るくはない未来になった2020年代初頭のある日、明るい未来の建築を訪問する機会を得た。
新橋駅から東京高速道路に沿って、築地方面へ歩く。この高架道路も、作られた当時は未来的インフラだったのだろうが、今では随分と古びて見える。
東京高速が首都高速に名を変えると、高架橋に沿って異彩を放つビルが見えてきた。集合体恐怖症の人なら発狂しそうな、このフジツボ的「マンシオン」こそが中銀カプセルタワービルである。

万博から2年後の昭和47年の建築、設計は万博の東芝館などのパビリオンなどを建設した黒川紀章である。ここ中銀カプセルタワービルは、現存する建築の中では黒川を代表する作品といえる。
60年代、若手建築家であった黒川は、同じく若手であった菊竹清訓などの新進気鋭な建築家とともに、「メタボリズム」という思想、建築運動を生み出した。
「メタボリズム」とは新陳代謝のこと。つまり、建築は人々の生活と共に生まれ変わっていくという思想である。この生物の細胞のような外観のこのビルは、まさにこの思想に基づいて設計されたものである。

ビル前に集合し、ビル保存団体の方の案内でいよいよ中へ。
ビルの名称看板は、濁点、半濁点が取れたために「カフセルタワーヒル」になっている。時の長さを感じさせるものだが、ゆるい響きは可愛らしい。

向かって右側、A塔のエレベーターで12階まで上がる。敷地外から見ると気づきにくいのだが、このビルは南側のA塔と北側のB塔からなるツインタワーである。外から見ると、赤茶色の尖塔が見えるが、あれがそれぞれの塔のコアになり、そこに螺旋階段とエレベータ、その周りにカプセルがくっついている構造である。

12階は、A塔B塔を結ぶ連絡階になっており、外のデッキを通して双方がつながっている。ちなみにA塔は13階建、B塔は12階建で高さも異なる。外デッキではあるが、A塔側は軒のように覆いがついている。説明を聞いていると、なんとその覆いはA塔13階のカプセルの底面。我々はカプセルの真下で説明を聞いていたのだった。

そんなカプセルは、A塔に76、B塔に64、計140個がついている。製造は滋賀県の鉄道車両工場で製作され、ここまでトラック輸送で運ばれてきたという。


建設当初から賃貸としてではなく、分譲されていたためカプセルのオーナーはそれぞれ異なっている。当初の想定では、メタボリズムの思想に則るように、カプセルは25年ごとに交換する想定だったが、1個も交換することなく既に49年が経った。
そのためライフラインなどもカプセルごと交換することが想定されていたため、電気水道などの使用に困難をきたしているカプセルも増えているという。
また都心、かつ隣接して高速道路が走るという立地の都合上、各カプセルの窓ははめ殺し。そのため、ビル内の一括集中管理で各部屋の換気空調を行なっていたが、それも既に作動が困難になってきているらしい。


居住者の中には、カプセルに穴を開け、エアコンを設置するなどの改造を試みる人もいるようだ。先進的建築の保守管理の難しさが見えてくる。

コアの中の螺旋階段を降りつつ、見学できるカプセルへ移動する。

コア内のエレベーターは三菱エレペット。49年間動き続けているが、階到着時にストンと落下する感じは、今ではなかなか感じられない懐かしさを覚えさせる。
螺旋階段は、エレベータの周囲4辺に段差があり、四角形のそれぞれの頂点にカプセルが2個ずつ設置されている。そのため、外観からはわかりにくいが、カプセルの設置位置は、それぞれ微妙に異なっている。

階段には、各家のメーターや保守管理用の扉などがあるが、メーターはオレンジ、保守管理用ボックスはピンクと、それぞれビビットな色使い。レトロな色使いだが、万博で確立されたサインシステムの一端を垣間見た気がする。


9階にたどり着き、いよいよカプセルの中へ。見学させてもらうA9-4号室は、建設当時の内装が残る数少ない部屋という。


カプセルのサイズは、2.5×4.0(m)。10㎡だと、ワンルームよりさらに狭いのだが、納めをうまくしている為、そんな狭さには感じにくい。
先ほど、カプセルはトラック輸送で持ち込まれたと書いたが、この2.5mは道路を輸送できる最大幅員であったため、これ以上広げることはできなかったらしい。
耐荷重は1.8t、60kgの人間を30人も詰め込むことは困難だろうが、古本などを積み上げれば、案外行きそうな数字なので怖いところ。


青いカーペットが敷かれた向こうに、このカプセルを象徴する円形窓が見える。円形窓には遮光用のブラインドがあったらしい。中心部分にハンドルがあり、そのハンドルを回すことで孤の部分にブラインドがかかるという斬新なものだったようだが、既にどの部屋にも現存しないらしい。一度お目にかかりたかったが。


標準装備で、カラーテレビ、オーバーヘッドライト、デジタル時計、以下オプション品らしいがラジオチューナー、テープデッキ、ステレオスピーカー、電話、電算機(電卓)が付けられた。いずれも壁面に埋め込まれる形で、部屋の一部と化している。電化製品がいずれもSONY製というのが、当時の空気感を物語っている。
テレビ隣には収納式の折り畳みデスク、玄関側にはクロークユニットと、こちらも壁埋め込みの上手い収納方法になっている。


続いて円形の扉が可愛らしいユニットバスへ。当時の日本人の平均身長が少し小さかったとはいえ、流石に狭い。ボンビーガールの3点ユニットが羨ましくなるほどに窮屈である。しかし、内壁や鏡、バスタブ、洗面器、便器に至るまで、角Rまたは円形になっているので、この窮屈な空間を少しでも広く見せようとした工夫の様子が窺える。
室内空間、そして家具やユニットバスに見られるプロダクトデザインの洗練さは、今の時代にも通用するものではないだろうか。


明るい未来から揺れるエレベータに乗り、再び現代へ。建築当時は、周辺には高速と汐留貨物駅程度しかなく、カプセルタワービルは周囲では高い方だったのだろう。貨物駅の後に、電通、パナソニック、コンラッドなどの高層ビルができた今、カプセルタワービルは、高さこそ勝てないが今でもその存在感は強い。



今後、このカプセルとビルがどうなるのか、あまり明るい話題を聞くことはできない。
建築から半世紀を経て、想像していた未来とは違う形の未来になったが、この後の半世紀、ビルにとっても世の中にとっても、また違う未来が来ることを願いながらビルを後にした。

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