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第2回◇学生との平和の対話集◇早稲田大学国際教養学部 基礎演習◇

第二回 争いは暴力で解決できるのか

 今回の授業では、教科書を批判的に読んでみた。教科書で提示された主張に対する批判ではなく、筆者が議論の前提としている考えを批判してもらった。前提であるので、必ずしも教科書内に言語化されていない。議論の前提を推測し、その前提に対して「ツッコミ」を入れるようお願いした。

学生A 紛争と暴力についての議論:大衆心理とリーダーの心理が紛争を長引かせる

・紛争は終わらないのか
・間接的な暴力はなぜ危険なのか
以上の2項について話し合いをした。
 筆者の主張を正面的に批判することは簡単ではあるが、筆者の思考過程の前提を論理的に批判することは困難であると思った。気づかないうちに筆者の論調に巻かれてしまうのだと自らの情報取得に対する甘さや思考の浅さを痛感した。
・紛争が終わらない理由のついて
 前提に対する批判もいくつか上がっていたが、筆者の論理に同感する立場である。しかし、加えて大衆心理とリーダーの心理についても指摘したいと考える。例えば、いわゆる間接的な戦争である冷戦は、東陣営と西陣営の人民の上昇思想が大きく関わっていたと思う。ファシズムにはしる国々も少なくない民の支持を得て成立し得たものである。そうの点において大衆心理についても提言したい。一方、今日のウクライナ侵攻についてもプーチン氏の絶対的権力の元の諸決断は彼の独裁者ゆえの他者に対する不信感から成り立っていると思う。歴史的に見ても、権力者の統治下の人々に対する不信感や国際状況に対する疑心が戦争や紛争を助長した。その点でリーダーの思考回路にが紛争を長引かせるものだと思う。
・間接的な暴力について
 本講義においても指摘したが、「間接的な暴力」とあえてマイナスなアスペクトをもつ言葉を利用して実際に手を下す暴力と対義をなすフレーズを定義する必要はないと考える。間接的な暴力には明瞭な境界線がないため定義できるものではないと思う。しかし、同時に差別や格差といった、『間接的』な暴力は存在するので、それらについて深く考えたい。価値観や固定観念は努力しても取り去れるものではないので、それらがある前提で他者が持つ価値観や固定観念と比較して中立的な批判的思考を育みたいと思う。

上杉返答
間接的な暴力という概念を言語化する意味はないという主張。差別や格差といった個別の暴力形態は存在するので、それらを個別に議論すればいいのか。それらを覆う「間接的な暴力」という概念を言語化する意義(用途)はないのか。一度、別の視点で考えてみてください。

学生B 批判的に読むことで見方が変わる:紛争の理由と間接的な暴力について考察

 筆者の主張を批判的に検証し、議論するという経験はなかった上に、本文で語られている内容の前提にツッコミを入れようとは思ったこともなかったので少し難しかった。最初に通読した時には「あーそうだな、そうだな。」と簡単に納得しながら読んでいた内容でも、批判的に読むことを意識するだけで大きく見方が変わることを実感した。仮に書かれている内容が正しかったとしても、それが本当に正しいのかと考えることは新たな視点をもたらす契機になるかもしれないとも感じた。紛争が終わらない理由として挙げられていた、サンクコスト効果の紛争への適用については、議論で懐疑的な意見も出ていたが、個人的には納得できるものだった。実際、現在のウクライナ・ロシア戦争でもロシアは多大な人員、物資を投入してしまったが故に、一定の戦果を上げなければ撤退することができない状況に陥ってしまっているのはとても良い例だと思う。そして本文での具体例以外にも当事国のプライドも大きく関わっているのは日常の個人間の関係によく似ていると感じた。「間接的な暴力」という言葉は、「直接的な暴力」と対置され、一見軽微なもののように聞こえてしまうと感じた。(日本語に差別やハラスメントなどの間接的暴力を総称する適切な言葉がないので仕方ないのかもしれません。)ただ、実際にはどちらも同等もしくはそれ以上のダメージを相手に与えているし、精神的な傷は長引くことが多いので、無自覚に行ってしまう可能性が高いだけに、その危険性をきちんと理解しなければならないと感じた。自分は物事を考えているうちにどんどんと主語が大きくなって最終的に哲学的な問題に辿り着いてしまう変な癖?性質?があるので、(治し方を知っている人がいたら是非教えてもらいたいです。)それに気をつけて次回以降も皆の意見を聞きながら自分なりの答えが出せるようにトライしてみたいと思った。

上杉返答
間接的な暴力の一つに構造的暴力という概念もあります。差別や格差のことを指すことが多いです。

学生C 紛争の理由と定義についての議論:間接的な暴力が紛争を助長する

 今日は筆者の主張を批評しながら紛争はなぜ紛争は終わらないのかを論じた。本文に書かれていたサンクコスト効果が紛争を長引かせるという主張に対して僕は少し懐疑的におもった。僕が思うに宗教紛争や民族紛争の当事者たちは紛争の途中で支払った犠牲を必要な出費としかとらえてないと思った。筆者のルワンダ大虐殺の例を用いるのならば、僕が思うにこの虐殺を扇動したフツ人の偉い人達はサンクコストを惜しんでこの紛争を泥沼化させたのではなく、何が何でもツチ人を根絶やしにする気持ちが強かった、もしくはフツ人を煽りすぎて制御が利かなくなったため紛争が長引いたのではないのかと思った。
 だが同時に筆者が述べた紛争の定義はすごく核心を突いているなと思った。筆者は紛争を「個人や集団が、同時に両立不可能なものをそれぞれ得ようとし、かつ目的実現のため実力行使も厭わず、自ら一方的に目標を達成しようとしている状態。」と定義したが、この「両立不可能なもの」という言葉が世の中の紛争のほとんどに当てはまるなとおもった。宗教紛争や民族紛争は当事者同士が不俱戴天の敵が故に共存が不可能で、天然資源をめぐる紛争は資源が有限かつ不平等に分布されているが故に両立が不可能だなと思った。この「両立不可能」な状態を科学技術などを駆使して「両立可能」な状態にすれば、民族紛争や宗教紛争は別に、天然資源をめぐる紛争は解決に一歩近づくのではないかと思った。
 ゼミで「間接的な暴力」は差別、迫害などの社会的な不平等のことをさす、という意見があった。それを今振り返って思うと、民族紛争や宗教紛争はこういった間接的な暴力が表面化したもの、という見方もできるのではないかと思った。例えばルワンダ大虐殺でのフツ人のツチ人に対しての憎しみはルワンダの植民地時代でのフツ人を差別や迫害する政策に起因するという見方もできるのではなかと思った。そして、こういった間接的な暴力を減らすことができれば民族紛争や宗教紛争などの解決に一歩近づくのではないかと思った。

上杉返答
指導者がサンクコストに縛られていない可能性の論の展開は説得力がありました。間接的暴力の議論も深い洞察力がうかがわれます。

学生D 教科書の批判が新鮮で面白い

 今まで、「教科書は正しいから、内容をそのまま取り入れることが大事」、と思ってきたので、その内容に疑問を持ち批評しながら読み進めるのは新鮮で面白かった。最初はどの文面を読んでも「なるほど」と納得して流されてしまっていたが、徐々に「ここは本当にそうなのかな」と自分の中で問いただしながら読めるようになった。グループで話し合うと、皆それぞれ別のところに疑問を見つけていて興味深かった。
 全体の話し合いでよく出たものとして、言葉の定義があった。「平和」と「和平」をどう使い分けているのかだとか、どこまでの範囲の争いを「内戦」というのかなどである。出てくる単語一つ一つを吟味してその定義を考えるとキリがないかもしれないが、できるだけ共通認識が持てるように、自分が文章を書いたりプレゼンをするときに、キーワードだけでも自分がどういう定義を使ってその言葉を用いるのか明らかにした方がいいと思った。
 先生のお話で特に印象に残ったのは、客観主義と主観主義についてのものである。奴隷制度が存在したアメリカで、もし奴隷と呼ばれた人々が自分の生活に満足していたのなら、外部が口出しして無理に状況を変えようとする必要はあるのか。「あなた達のいる状況はおかしい」と教えてしまったら、途端に現状に不満を持つようになり人々の幸福度は下がるどころか国の秩序は乱れてしまうかもしれない。ただ、教えてあげることでさらに良い生活を送る希望を与えることもできるかもしれない。どちらを選ぶべきなのか答えが出ることは無いだろうが、考え続けるべきことでもあると思う。

上杉返答
主観と客観の話は哲学的な議論に陥りやすいです。しかし、介入者の倫理として避けて通れません。

学生E 教科書の内容に疑問を持ち批評する:言葉の定義と客観主義と主観主義

 紛争を解決することはできるのかや、社会に必要な暴力について話し合いました。
 一番印象に残っているのが安定した国づくりが本当に良いのかという疑問です。政治に対するデモや運動が起こらなければ「平和」なのか、少数派が声を上げることのできない国は安定した国なのか、ということを考えたときに、安定した社会は必ずしも全国民にとって良いものではないのかなと思いました。だからといって、不安定で、毎日の生活が保障されない国は住みやすいとは思えません。そうなると、統治者がひとつひとつの意向をくみ取って、政治を行う必要がありますが、膨大な意見を矛盾することなく政策に反映させることは極めて困難なことで、必ず誰かは妥協しなくてはいけない状況になると思います。ここでの妥協が根本からの解決を妨げ、さらなる不満や対立を生むおそれもあるなどといったように色々なことを考えると、きりがない気がして、紛争を解決することの難しさが分かりました。
 私はいつも書いてあることに対して疑問を抱かずに理解したつもりになってしまうので、批判的に読むことは難しく感じました。そして自分が普段どれだけ自分の中の価値観、前提に縛られているのかに気づかされました。どうしたら批判的に物事を考えられるようになりますか?

上杉返答
本日の気づきは、とても素晴らしい。毎日、批判的に読書する習慣をつけるとよいです。すぐに慣れると思います。著者と会話するように、ツッコミを入れていくのです。ただし、すべての読書にツッコミを入れていては、先に進まないので、毎日30分は批判モード、あとは受容モードでいいと思います。

学生F 奴隷制についての議論と国家権力についての疑問:外部の人間が介入することが正しいか

 私は過去に”slavly today"という各国の今日の奴隷制に焦点を当てた本を読んだことがあります。そこでは今も女性だからという理由や親がおらず子ども自ら働かなくてはならないからという理由で奴隷のような扱いを受けている人が世の中に何千万人といることが述べられていました。今日の議論中に差別下にある人や奴隷として扱われている人に外部の人間が『それは違法ではないか』『あなた達は酷い状況に置かれている』と訴え、当事者間に争いを生むことが正しいのかという話が出ました。過酷な状況に置かれている彼らはそうしないと生きていけず苦労の末に見つけた仕事に対して一生懸命ですが、外部の人間はそうした状況ではありません。彼らはいつでも仕事をやめ、新しい働き口を見つけることができます。もちろん社会的に弱い立場に置かれている人々を酷使する雇用主が悪いのは確かです。しかし自らの正義を振り翳し、それはおかしいと声をあげ、仕事を取り上げることが本当の意味で弱者を救うことにはならないのではないかなと感じました。この一件は争いに分類されると思いますが、紛争や戦争ではないこの問題でも憎しみや恐れを無くし平和に解決するのは極めて難しいと考えました。
 加えて国家権力のことも疑問に思いました。ある問題に対し注意をしたら嫌がらせが始まったというのは近年増加している隣人トラブルの一種ですが、それに対しての報復として相手を殺すことは法律で違法とされています。しかし例えばその嫌がらせが単なる通せんぼだとしてもそれで大切な人の死に際に間に合わなかった、物を壊す行為だとしてもそれが形見だったなど、個人にとってその行為がどのくらい精神的に影響を与えるかは他者が計り知れるものではなかったとします。その場合、自身の心を守るために行なった殺人は正当防衛ではないのでしょうか。それが正当なことかそうでないかは当事者の判断であるのに第三者が判決を下すのは果たして適当なのでしょうか。国家なら司法の力で人を殺すことが認められていますが、個人ならどんな理由であっても人を殺めては行けないという現在の法律が普遍的になっている世の中が本当に正しいのか疑問に思いました。

上杉返答
対策を一回切りで片付けない。弱者への代替の選択肢をまずは作り、次のステップとして、現状の暴力性を除去する。もっとステップを踏んでもいい。同時に多方面からアプローチしてもよい。同時に、諦めることが解決策になる時がある。諦めを促す仕組みとしての司法がある。

学生G 文献を批判的に読む:紛争の終わりを定義

 まず文献などを読む際には前提が正しいかどうか疑問を持ちながら内容を判断することが大事だと学んだ。よく‘‘批判的に読む‘‘ことが大事だと言われるが、なかなか実践が難しいこともあるのでグループのメンバーと意見交換をしながら批判的に文献を読むことができてよい練習になった。
「どうして紛争は終わらないのか?」というディスカッションパートでは、まず何を‘‘終わり‘‘と定義するかが議論となった。私は、関係のない先進国が最終的に紛争に介入して見かけ上紛争を停止させるというイメージが強かったため、民族間には相互嫌悪の気持ちが永遠に残り、紛争が何度も再発してしまうのではないかと考えた。この考え方から派生して、実際に民族間で合意をし、円満に解決した紛争があったのか調べてみたいと思った。
 また、議論中に紛争当事者の生の声を反映させるべきという意見があったが、それに対して筆者である上杉先生の「当事者が納得している場合はOKなのか」という反論に対して、深く考える必要があると感じた。高校生の時に、フランスのスカーフ論争(公共の場ではイスラム教の女性は宗教色の強いスカーフを脱がなくてはならないライシテという規則への論争)について世界史の授業でディスカッションをした。女性たちは生まれたときからスカーフをかぶることが普通(しかし半洗脳的に思える)だが、他の宗教の人から見るとスカーフは女性抑圧の象徴であり、男性支配を強く反映している、つまりイスラム教の女性の自由を奪っていることの象徴だ。だからフランスのライシテはイスラム教の女性を解放するものなのだと主張する人々がいた。このように、イスラム教の女性はスカーフに対して何も思っていることが無くても、外部から見て「かわいそうだ」などど勝手に同情され、勝手に問題として踏み込まれてしまうこともある。この場合、当事者たちの意見が重要なのか、それとも傍観者である私たちが彼女たちを解放すべきなのか。うまく説明できたかは分からないが、この話を思い出した。
「紛争を解決することはできるのか?」のパートでは、非暴力をどこまで守り続けるかということを考えさせられた。確かに非暴力主義は聞いただけだと良い風に聞こえるが、力や立場の弱い人が非暴力運動を続けていても、大きな力にはとてもかなわない。これについて明確に非暴力が良い、悪いという答えが出せないので、またみんなで話し合ってみたいと思った。
「間接的な暴力はなぜ危険なのか?」間接的、直接的、とカテゴリー別に分ける重要性、そうすることによって見えてくるメリットやデメリットを書き出して深く考えたいと感じた。私の意見では、近年、インターネットいじめなどPhysicalではいじめ問題が問題化され、件数も多くみられるようになってきたが、依然として可視化が難しく、全て数え上げるとなると恐ろしい件数になると思う。しかしその手のいじめは被害者側の精神を確実に蝕み、じっくりダメージを与えている大変危険な暴力だと思う。間接的な暴力がこれからも増えていくと個人的に思うため、件数を減らす為に周りがどうするべきなのか、また加害者側の心理についても知りたいと思った。

上杉返答
多面的に思考を働かせている様子が伝わるレビューです。「いじめ」は、どうして社会からなくならないのか。暴力・非暴力に代わる方法はあるのか?ガンジーやキング牧師は、暴力に代わる選択肢を「抵抗」に求めました。

学生H 授業で本の前提に目を向け、社会に必要な暴力について考えた

 今回の授業では、本の内容ではなくその前提に目を向けるということをした。普段は書いてある内容をふーんと思って終わりにしてしまうことが多くあったが、前提に目を向けることで今まで気が付かなかった疑問がたくさん出てきて面白かった。
 いろいろなことに当てはまると思うが当事者という言葉の範囲はあいまいなもので、解釈の仕方の違いによって、同じ出来事を見ても違う見方ができ、いろいろな視点から出来事を観察することが大切なのだと思った。
「社会に必要な暴力」は最近多く話題に上がる中国や、台湾での問題を先生が例に挙げていて、独裁体制による弾圧に抵抗するために暴力に頼る以外の方法がなかった場合には認められる部分もあるのかなと思った。しかし、ロシアによるウクライナ侵攻は西側諸国による勢力の拡大から自国を守るためだという理由で始まったことを記憶している。規模にあまりの違いがあるが、中国周辺での武力抵抗とロシアのウクライナ侵攻を社会に必要な暴力とするなら、なぜ一方は世界的に認められているのに、他方は認められないのか疑問に思った。自分なりに考えたのが、授業で考えた「正当防衛」が関係していると思った。正当防衛のやりすぎは禁止されているというが、やりすぎの基準の相違が隠れているように感じた。しかし、多数派である西側諸国は基本的に東側諸国に対して厳しい態度をとる傾向にあるので、もう少し東側諸国のことも紛争が起こる前に何か配慮などできなかったのかなと思った。(浅はかな考えかもしれないけど)
 世の中が多数派を中心に回ることは理にかなっている部分も多くあると思うので、悪いことではないと思うが、その反面多数派の都合のいいように社会が回っていく傾向が出来上がっていると思うのでマイノリティを考慮に入れて互いの主張をぶつけて衝突するのではなく、互いに妥協点をみつけていくことが大切なのかなと思った。
 また、大きなテーマを小さく分類することによってある特定のことに目を向けたり、範囲を狭めることによってより深い思考ができるようになると感じたので、今後そのような考え方も取り入れていきたいと思った。

上杉返答
定義は重要です。同時に言語に制約を受けてしまう現実も見えました。言語化できないことは伝えにくい。思考枠組みを変えることの効用にも気がついたようです。素晴らしい。実践していってください。

学生I 異文化批判は暴力か

 ディスカッションでは、「当事者は〜しようとする」「加害者は〜」のような、著者ではない人間(集団)について言及する部分への疑問や意見が多く挙げられた。
 例えば紛争当事者の証言を、そのまま本に引用したとしても、その当事者が属する集団の総意とは限らないし、当事者は嘘をついている可能性もあると考えると、できるだけ多くの当事者の言動を引用するとより多角的に考えられるのではないかと思った。
 第2章の6節のうち、「異文化批判は暴力なのか」という疑問文に最も興味を持った。特に宗教に関係する文化はデリケートで、批判するのがためらわれる点が問題だと思う。自由を制限するようなルールが宗教で決められていても、本人が納得していて本当に信仰しているのならば批判は余計なお世話でしかないが、自分の意思で宗教を選べない人にとっては正当な批判になると思う。異文化批判が暴力だと言い切るためには、信教の自由が保証されているという前提が必要だと考えた。

上杉返答
受講生の皆さん、異文化批判に対する、この意見をどう思いますか?学生間の対話を始める良い切り口だと思います。デリケートなことは避けるべきか、あえて指摘するべきか。なぜデリケートなのか。デリケートな話題は、どう議論したらいいのか。色々な問いが浮かびますね!

学生J 批判的に文章を読む:客観主義と主観主義、社会に必要な暴力

 批判的に文章を読むことの難しさと大切さがよくわかった。初めに一通り読んだだけでは、どのフレーズも「その通りだよね」としか思えず、前提に疑問を投げかけることはとても難しかった。3人でようやく2、3点を見つけることができて本当に難しいと感じていたところ、みんなで考えたことを共有したら3つのグループで見事に異なる意見が発表されて、多様性を感じた。自分たちのグループでは全く話題に上がらなかった点に着目されていて面白かった。
 物事を考える際の客観主義と主観主義について、深く考えさせられた。私たちは自らの価値観を持って物事に接してしまう癖があり、イスラム教の女性に対する制約はまさにその一例である。私はやっぱり女性の権利は守られるべきだと考えるが、余計なお世話なのかもしれない。逆に、私たち日本人は一般的には集団行動をすることに抵抗はなく当たり前で社会の調和を保つためには必要と考えがちだが、海外の人には自由意志を妨げられているように見え、かわいそうなのかもしれない。しかし、自分の立場になって考えてみると、私は海外でのもう少し個人主義的な文化を”知っていて”、その上で日本はもう少しこの同調圧力を与えるような文化をかえるべきだと考える。それと同じように、当事者たちも他の国/文化圏ではどのような風になっているのかを知り、その上でどちらがいいかの選択を当事者がすることがこの主観/客観問題にはいい解決法なのではないだろうか。
 紛争を解決できるのかどうかについて意見共有をして興味深いと感じたのは、「安定した国作りは必ずしも国民皆にとっていいことだとは限らない」ということだ。そして、もちろんマイノリティは比較的いつも弱い立場に置かれていて、そのような人たちが反乱やデモを行うことはごく普通なことのように感じるが、そのことでさらに弱い立場の人が困るようなことが起きたらそれはマジョリティがマイノリティに対して行っていることをまたやっているだけになる。さらに、マジョリティ側の人たちは現状に問題があるとは感じないということも難しい問題だと思った。社会に必要な暴力があるかどうかの議論に関しては、私は必要だと感じる。また、国家が権力を持って何か行うことを暴力と呼ぶ必要はないのではないのかと感じた。もっとわかりやすく言い換えるならば「力技」であろうか。力づくで物事の解決、仲裁に入ることは正当な理由に基づいたものであればやはり必要だと考える。しかし、グループで「個人は殺人をしてはいけないのに国家は殺人をしていいのか」ということが話題に上がり、これは確かに暴力と呼ぶことのできる行為で、(これまでにもずっと議論されてきた話題であることは知っているが)まだまだ議論の余地があるのではないかと感じた。

上杉返答
素晴らしいレビューです。選択肢があること、そして自由意志で選択できること。だから、選択肢がない人たちが選択肢を作るお手伝いは、お節介ではない?!それによって、新たな対立や緊張は生まれる。しかし、それによって、女性の社会進出が可能になった側面も否定できない。

学生K 「紛争の終わり方」と「間接的暴力の危険性」について議論

 講義内では「紛争はなぜ終わらないのか」「間接的暴力はなぜ危険といえるのか」について議論し、考えを深めました。自分自身、受け身で本を読むことが多く、前提に目を向け、批判的思考を持ちながら読み進めていくことがなかったため極めて新鮮な経験だったのと同時に難しさを実感しました。
 前者の議論内では、フツが加害者でツチが被害者だというのが一般的な考えだというのはどの視点から見た時に一般的なのか、解決しない紛争はないのか、紛争の原因となってしまう「両立不可能な状況」は本当に両立不可能なのかなどの意見があがり、目から鱗が落ちるばかりでした。
 また後者の議論での「間接的暴力」の定義についての意見はとても興味深かったです。言葉や態度でのアクションが間接的暴力になりうるのならば、ニュースや雑誌などで行われている政治批判は暴力になりうるのだろうか、それとも正当化されるのか、簡単に答えを出すことのできないような疑問だったため、講義後も熟考していたのですが納得できる答えを見つけ出せませんでした。自分の中で答えを導き出せるよう、より深く勉強したいです。
 講義内で出た平和と安定の関係はノットイコールであるという意見も興味深いものでした。その話を聞いて思い浮かべたのは北朝鮮です。北朝鮮は現在、紛争下や戦争下にあるわけではありません。ですが北朝鮮に住む人々は平和な状況下にいるといえるのでしょうか。戦争や紛争がなければ、人権や自由が侵害、抑制されていても平和と呼べるのでしょうか。私は北朝鮮は安定している状態にあっても平和だとは言えないと考えます。ディスカッションを通して自分一人では気付けなかった視点や意見を多く知ることができたので、自分の中で深めていきたいです。

上杉返答
目から鱗は私も実感!熟考するとき、一人で頭の中でするのは非生産的かな。紙に書き出して言語化する。友人と話すことで言語化する。悲しいかな、言語化しないと思考が固まらないのです。

学生L 本を批判的に読むことで新たな発見:SNSでの誹謗中傷は暴力、規制することも暴力

 本を読んで、書かれている内容に対してツッコミを入れて、前提とされていることを否定するということを行った。本を読む機会は少なく、読んだとしても受け身としてしか読んでこなかったため、今回の様に実際に書かれている内容に対して頭を使って考えることで新たな発見や自分の考えがよりはっきりとわかるということがわかった。
 本として売られているものは何度も修正を加えてから出版されているものに対して、批判出来るところを見つけるのは、ただ単純に内容に対する屁理屈を言ってるように思えた。そこの境界線をみきわめるのが難しかった。
 講義の中で批判も暴力になり得るためSNSなどでの誹謗中傷は暴力であるという内容に対し、それらを規制することもまた意見をもつものへの暴力になってしまうという事に、暴力という言葉の定義の難しさが表れていると思いました。またここには主観客観の違いや個人の価値観の違いも含まれていて、終わりのないような話にも思えました。

上杉返答
屁理屈と(正当な)批判の境界線は、どこに引けるのだろうか?重箱の隅をつつく批判ではなく、本質的な批判や根源的な批判とは、どういった基準を満たした批判なのか?いかがでしょう?

学生M 紛争を終わらせることは難しい。社会にとって必要な暴力にはあるか

 授業内で、著者の主張ではなく前提にツッコミを入れるという初めての試みをしました。本を書かれる方々はとてもその分野については知識が豊富で、言葉遣いも巧みであることが多いため、主張を聞き、納得してそれで終わりになってしまっていました。しかし今回前提があやふやだと主張も成り立たないという一見当たり前に感じる事実を認識できてよかったです。
 紛争を終わらせることが本当に可能なのかという議論について、やはり焦点になったのは終わらせるとはどういう状態を指しているのかということです。著書に合った通り世界には実際に和平協定という形で終結した紛争があります。ですが全ての当事者がそれに納得しているかというと否です。人々の憎しみをどうしたら払拭できるのか。最終的にはこれが紛争を終わらせる鍵になると思います。私が聞いた話の中で、人々は共通の敵がいるとき国や人種を超えて団結できるというものがあります。今の世界を見てみるとまさにその通りで、アメリカや中国は同じ価値観を持つ国々と結託して互いを敵に見据えています。そして完全にとは言いませんが同盟国同士では仲良くやれていると言えるでしょう。ここまでを踏まえると例えば地球に宇宙人が侵略してきて人類全体が危機に陥ったとき、初めて憎しみが同じ人間以外へと向けられ、紛争は解決したということができるのではないでしょうか。最もそのようなことが起きるのはあまり現実的ではありませんから、同じく紛争を終わらせることも現実的ではないだろうと考えます。
 そして社会にとって必要な暴力についての議論は、基本的には必要であると考えます。時代の経過とともに私たちを取り巻く環境は複雑化しており、個人で生活を管理するには限界があります。そこで国家が権力を振るうことで個人の行動が他人に迷惑を及ぼさない範囲まで制限されています。しかし、国家が絶対的な権力を持つことは問題です。私たちは法律を遵守して行動しますが、その法律に賛同できないときはどうしたらいいのでしょうか。最近ニュースでロシアが電子召集令状を送ることを可能にする法律が制定されたと聞きました。確かにこの法律は誰かに迷惑をかけるものではありませんが、納得できない人も多くいるはずです。しかし、絶対的な権力には逆らうことが出来ません。そう考えると私たちはどこまでの範囲で自由なのかということを見直す必要があります。そして絶対的という言葉はふさわしくないでしょうから、社会の維持に貢献し、かつ皆が納得できるという意味での権力を改めて定義すると話が進めやすいと思いました。

上杉返答
宇宙人の侵略は地球人を団結させる。。。私も、そう考えていました。しかし、西洋人がアフリカやアジアやアメリカに進出してきたとき、外部の征服者の側についた部族や個人がいたことも事実。『三体』という中国のSF小説にも宇宙人に協力する人間がでてきます。

学生N 批判的に本を読むことで新しい発見:紛争は複雑で、解決には理解が重要

 本を批判的に読むことを今まであまりしてこなかったのでつっこむことを前提に本を読むのは新鮮で面白かった。人それぞれ当たり前なことというのは違っていてちょっとしたことで意味合いが変わってきたり疑問が生まれるのだと感じた。今回は紛争についての文章ということもあってより複雑であるが故に他の人がつっこんだところを聞いて自分が軽くスルーしていた部分を違った視点から深く考えるいい機会だった。
 紛争というのはみんなが感情、自分自身の考えをぶつけ合って生まれるものだと思う。「解決」「和平」って何だろう、それは一体誰にとっての言葉なのか?普段から使っている言葉に違和感を感じることができた。「紛争」という言葉自体もどこからが紛争なのか、小さい争いも含めたら解決は一生できないのでは?など、友達と意見を交わすことで自分の中での当たり前がひっくり返った。「安定した世界を目指す」というけれど、一見安定に見える世界は「平和」なのか?安定した世界に疑問を持つ人、自分の考えがその世界とは違う人は少なからずだろうけど、その人たちは黙って安定した世界に従うべきなのか。この議題は発展途上国以外にも日本といった先進国にも当てはまることだと思った。多数派に隠れて少数派が納得いっていないという例は無限に存在する。しかし安定した世界を壊して意見を主張しても思い通りになるかわからないし、より弾圧を受けるかもしれないという状況はどの国であってもあってはならないと思うと同時にその状況を変えるのも難しいと感じた。また、紛争は全て主観で動いてるのではないかという意見は興味深かった。紛争を客観視することはどうしても難しくなる。一見客観的に動いているように見えても見えない同情だったり価値観の近い方に第三者がついてしまっている気がした。
 今回のディスカッションでより紛争が複雑に感じた。でもその複雑さを理解することは解決に近づくためにも重要だと思った。

上杉返答
勢いがあっていい文章!どうして複雑さを理解することが解決に近づくのか?正しい処方箋をかけるから?この関係を、もう一歩深く考察してみてください。

学生O 話し合いで異なる視点を見出す:暴力定義の難しさ、妥協の重要性

 グループでの話し合いを通して自分とは異なる視点や考え方を知ることができた。「一般的」とは誰にとって一般的なのかと言うツッコミは、私は考えもしなかっただけに新鮮に感じた。この言葉はルワンダ大虐殺について述べた箇所にあったものだが、確かに当事者同士や第三者では出来事の捉え方は違うし、さらには時が経てば変わる可能性もあると思った。ただ、著書にもあるようなある出来事に対する「一般的」は、ほとんど第三者視点で述べられているように思われる。というのも、当事者視点になるとどうしても感情的、つまりは主観的な見方になってしまい、「一般的」という言葉が意味として持つ「普遍性」の要素が欠落しやすいと考えるからだ。もちろん第三者も人間なので主観ゼロは不可能だろうが、当事者よりは遥かに客観性を保つことができると思う。
 また、暴力についてのツッコミも刺激的だった。特に、「悪口や差別も直接的暴力なのではないか」、「悪口=直接的暴力とすると批判ができなくなる」の両意見はどちらも共感する部分があり、一方を完全に支持することはできず頭を悩ませた。暴力の定義は難しいと身にしみて感じた。
 他にも、「平和≠安定」と言う意見は興味深く、複数の国を思い浮かべた。北朝鮮や最近のスーダンは、停戦により一応は平和だが生活は安定していない(スーダンは再び紛争状態になるかもだけど…)。逆に第一次大戦中のアメリカは、戦争に途中参戦し平和と言えなくなったものの、生活が著しく不安定になることはなかった。このように平和と安定は同義ではないため、両者が両立できる社会を形成することが大事だと思った。今回の授業でものごとの定義の難しさを実感した。人により定義の仕方は違うかもしれないが、擦り合わせをして妥協な範囲に持っていくことが重要だと思った。

上杉返答
どちらにも共感できる。そのときに、どちらか一方を選ぶのではない、第3の道がないか、探してみましょう。

学生P 本の前提を疑い、批判的に読む:紛争の終わりや暴力の定義

 今回の講義は、本の前提を疑いそこから問いを見つけ出すというところからスタートしたが、このように批判的に本を読むということが今までなかったため、難しさを感じた。しかし、批判的に筆者の主張を読んでいくことで、些細なことにも疑問を持ちより深く今回のトピックについて考えることができたと思う。今回のディスカッションは、どうして紛争は終わらないのか、間接的な暴力はなぜ危険なのか、の二点に焦点を当てて行われ、筆者の前提を批判し矛盾点を洗い出し歴史的事象を振り返るなどして、紛争そのものはどうなったら終わりなのかということを考えたり、どこまでが直接的な暴力でどこまでが間接的な暴力なのか、何を暴力とみなすのか、ということを考えたりしたが、深く考えるにつれて、そもそもの定義を決めなければ結論に至ることは困難だということに気が付くようになった。
 ここで、客観主義と主観主義の問題が浮かび上がってくる。今回の授業内で、ある一つの意見においても個人がそれぞれで別の前提を持ち、それぞれの主観的な物事の考え方でその意見を客観的に判断し定義付けしようとしていたため、一つの疑問が解決してもまた次の疑問が浮かび上がり、時間内にチーム内で一つの考えを共有することはできなかった。自分はこれが紛争の解決が困難になる理由なのではないかと考えた。4人という少人数のチームでもこれだけ多様的な意見が出てくるのだから、民族規模、地域・国家規模での紛争においてはより多様的な価値観が生まれ、それぞれの考えがすれ違うことで紛争が激しさを増し、他国が折衷案を提案しても、それは客観的な考えであるにすぎないため、根本的な解決にはつながらないのであろう。このように考えると紛争を解決するのは不可能であるかのように思えるが、それぞれが価値観を共有し、妥協するところは妥協することで紛争も少しは減るのではないだろうか。ただこれも紛争の当事者ではない自分の客観的な考えである。やっぱり紛争の解決は難しいなぁと感じた授業だった。

上杉返答
主観と客観を何度も往復して調整を重ねていくことになるのだと思います。

学生Q 批判的に本を読む:紛争の終わり方、暴力の定義、客観主義と主観主義の問題

 第二回の授業では文章を批判的に読み、扱われている前提知識が適切であるか、不十分でないかを考えた。最初に読んだときはどこにも指摘する余地がないように思われたが、グループ内で話し合い、繰り返し読むうちに、見過ごしていたが定義が曖昧なものや安易に断定しきれないものが多くあり、自分たちが前提としているものの不完全さ不確定さを理解できた。
 今回の授業で特に印象的だったのが、当事者(主観)と第三者(客観)の認識の違いについてです。紛争を行っている当事者は両者とも自分たちが正しく相手が間違っていると考えていると思われます。しかし、そのことについて第三者が口をはさみ片方の肩を持つのは果たして正しいことなのか気になった。それに加え、異文化批判も多様性が求められる現在の状況でどのように位置付けられるのかが気になった。例えばムスリムは豚肉を食べることを禁じているが、異なる宗教圏の人々がそれに対し同情や批判をしてもいいのか、それとも宗教的配慮を行うべきなのか。自分が所属している宗教や文化での前提知識を異なる宗教や文化の人に押し付けてもいいのか。北朝鮮では金一族が神格化され絶対であるが、それに対して他国が批判するのは親切なのか暴力なのか。異文化批判が暴力になる場合とならない場合の線引きが曖昧だが、その宗教や文化の考えが他者に危害を及ぼさない限りは尊重すべきのように私は感じた。異なる価値観の中で私たちはどのように物事を考え、捉えるべきなのか。どの段階をもって「解決」とするかが困難なところではあるが、この問いについて考えることで紛争解決に近くと思った。

上杉返答
文化的暴力は論争をよんでいます。どう建設的に異文化間の対話すれば良いのか、という問いにもつながりますね。互いに尊重しながら批判的に意見を交換する場合、どちらが正しいのかを争わないことが大切だと思います。他方で、人権のようなユニバーサルな概念と言われるものをめぐる対話は、本当にユニバーサルとはどういうことなのかを詰める必要があります。

学生R 批判的に文章を読む:紛争の終わり方、間接的な暴力の定義、安定=平和か

 今回の授業では文章を批判的に読み、クラスメートとの話し合いを通して「どうして紛争が終わらないの」「間接的な暴力はなぜ危険なのか」という二つの質問に答えました。
「どうして紛争は終わらないの?」の文章の前提に置かれていた:紛争が起きるのは「両立不可能な状態」が存在するからだという考えが個人的に気になりました。確かに紛争が起きる理由はAとBが違うことを望んでいるからだと思いますが、同じ「平和」を望んでいることも自分の仲間のBest situationを考えて争っていることは一緒だと思います。
「間接的な暴力はなぜ危険なのか」の文章の前提に置かれていた間接的な暴力の定義が気になりました。本では無視や悪口、へーとスピーチや無意識な差別は全部間接的な暴力だと言っていました。でも、この全ては受け取り方によって暴力なのか冗談なのかも変わり、「暴力」だと言っていいのかがわかりません。もしこの全てを「暴力」の一種にしてしまう場合、何も批判的に考えることもできません。
 また、先生が聞いてくれた「安定=平和なのか」という質問に答えたいと思います。私は安定していない社会が平和を目指して動いている社会だと思います。「平和」は手に入らない目標ですが、「安定」は今の状態でcontent(満足?)であるときにしか起きないので「不安定」、つまりもっといい社会を目指して動いて荒れているのがいいことなのではないかと思いました。

上杉返答
暴力を主観で分ける思考を提示してくれました。今度は、その考え方が招く問題を挙げてみてください。

学生S 戦争の終わり方、社会に必要な暴力、客観と主観についての考察

 教科書でも参考書でも、書いてある内容に意識的に批判をしたことはなかったため、先生の本を批判するというアクティビティは新鮮かつ難しかったです。確かに物事を、特に先生の著書のような高度に政治的で論争の的になるような内容を全て受動的に受け入れてしまうのは危険だし、些細な文章や言葉にも注意を払うのは大切だと思いました。一方で、無理やり批判内容を絞り出すことで批判というよりただの屁理屈や文句にもとれるような指摘もなかったとは言えず、その境界線を見極めるのも大変だなと感じました。 
 戦争はなぜ終わらないのかという大きな問いについては、そもそも「終わる」とはどのような状態を指すのか、といった部分から疑問が浮かびました。憎しみが全て消え去った状態なのか、単に暴力で傷つけあうことがなくなった状態なのか。また、私が興味深いなと思ったのは、国や地域などのグループのトップ同士が和平合意をしても、必ずしもその国民や一般の人々にとっても戦争が終わったことにはならないのでは、という意見です。テレビやニュースである紛争や戦争の和平合意が結ばれたと聞いてホッとしてしまう自分の考えの浅はかさに気づけました。
 社会に必要な暴力については、正当防衛や国家権力をそもそも「暴力」と定義していいのか、という意見などが出ました。私たちが話し合う内容はどれも難しいものなので、どうしてもそもそもこの言葉の定義ってなんなんだろう、というところからのスタートになってしまいますが、いかに物事の定義付けが難しいかを実感させられます。
 全体として一番記憶に残っているのは、客観と主観の話です。当事者が満足していればいいのか、はたまた客観的に見て「良い」状態ならいいのか。正義ってなんなんだろう、ととても深く考えさせられました。まだ二回しか授業を行っていませんが、クラスのみんなと話し合うたびにすごく納得できる意見や自分では気づかなかったポイントを知ることができるのがとても楽しいし、自分の未熟さを感じます。

上杉返答
戦争終結と一般市民の受容について、私も同じ問題意識をもっています。この点を明らかにする研究を遂行中です。

学生T 先生の本を批判し、親睦を深めた

 今回の授業では、主に先生の本を読み、その中で疑問点や批判するポイントを見つけるということを中心に授業を行った。まず、私のグループは紛争はなぜ終わらないのか?という章を読み、その中で文章に対するツッコミを考えた。最初に先生の本を読んだ時は、文章に対して何も疑問を感じることができず、いいツッコミが思いつかず、私が考えた批判はどれもが言いがかりのように思えたしかし何回か回数を重ねることにより、しっかりと批判点やあまり根拠などが明白にされていない部分を見つけ出すことはでき、爽快であった。私のグループのメンバーは私が全く目をつけてなかった部分などに疑問を抱き、とても的確なツッコミをしていたため、着眼点を変えることの大切さに気づくことができてよかった。また前回の授業でまだあまり話せていなかった人たちと対話してこの授業を通して親睦を深めることができて嬉しかった。
 私が最も鋭いと感じたツッコミは、間接的な暴力はどうして危険なの?という問いに対して間接的な暴力を危険と決めてつけるのは良くないというツッコミである。確かに、間接的な暴力は、人を傷つける可能性が高いが、人の意見に対する批判などにより議論などが進む場合も大いにあるため、決して悪い側面ばかりではないという内容のツッコミであった。

上杉返答
人を傷つける間接的暴力と社会の改善につながる間接的暴力を分ける境界はなんだろうか?

総括

 今回の学生たちの投稿文は、類似性が高いものとなった。彼らは、教科書を批判的に読むことに慣れていない。よって、今回の授業の収穫は批判的に読むことの効用を実感してもらえた点にある。主観と客観の問題が多くの学生たちに刺さったようだ。間接的暴力という概念を受け入れることで、政治・社会批判をすることが「暴力」と捉えられてしまいかねない。それでは、必要な批判ができなくなってしまうのではないか。このような意見が学生からもたらされた。とても興味深い。

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