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glassmond4曲リリースに寄せて

制作開始から、1年以上経ったのかな。やっと各配信サービスで聴けるようになりました。

今回は、製作途中で自分でも分かってはいたが、足し算しかできなかった。やりたいこと、やれそうなこと、全て詰め込んだ。今考えうることを一度すべてカタチにしないと気がすまなかった。一度終わらせないと、やめることも次に進もこともできなかったのだと思う。

本格的な制作過程に入ったときは、「おれ、なんでこんなことやってるんだろう」とずっと思ってました。これはネガティブな気持ちではなく、不思議な感覚でした。もちろん、自分が自分の好きなようにやりたいと言いだしたものだから、やるのは当たり前なんだけど、こんなに時間と労力とをかけて、協力してくれる方々の時間もいただいて大変な思いをさせて申し訳ないな、果たしてこれが何かにつながるのだろうか、などと思っていた。

ただこれは、「何かにつながるからやる、何かにつながらないならやらない」という話ではなかった。実際、何にもつながらなくても(聴かれなくても)1ミリの後悔もない。または聴いてもらって「全然よくない」と言われても、「ああそうですか、でもこれが自分らなんで」としか言えない。

もちろんつながれば嬉しいし、何らかの反響があってほしいとは思うけど、何かにつながらないならやらなかったかといえば、決してそうではなかった。もう止められない状況で、何があろうとも、どんな大変なことがあろうとも、最後まで、気が済むまで、やりきる、今自分が考えうることすべてを音に詰め込んでやる、というような感じだった。

そこで思い出したんですが、「迷わない」ってこういうことだったんだな、って。昔、学生時代に就職活動の時期になって、「音楽をやるか、就職するかで迷っている」みたいな相談を友人にしたことがあった。そこでよく言われたのは「本当に音楽やりたいやつは、迷わないでもうやってるよ」って。(今思い返せば、音楽やることと就職することを並列で考えること自体がおかしんだけど。)でも今回は迷ってない、こっちにしか道がないみたいな感覚で、進めてきた。やらない選択肢はないと。だから、本来めちゃくちゃ苦手なスケジュールの調整とか各種連絡コミュニケーションとか、そこまで苦に感じずやれたなと思う。

つまりこれって、坂口恭平氏のいう「自分の薬」(もっといえば排泄)に近いんだと思う。自分の中に溜まりに溜まったものを、外に出してしまわないと病気になりそうというか、気持ちが悪い。流れを止めてしまうとよくない、流れるものは流さないとよくない。

僕の場合、とにかくあべちゃんの原曲(やハナウタ)を気が狂ったかのように聴きまくっていた。それはまるで宝の山のようで、どんどんイメージが膨らんでいって、溜まりに溜まっていた。「ああ、こんなふうにしたらかっこいい」とか「こうしたらすごい世界観になりそう」とか。

しかしそれをアウトプットする手段と機会がなかった。いやあったかもしれないけど、うまく流れてなかったのかな。(だから今はあべちゃんの原曲は、アウトプットのカタチが決まってない限り、聴くのをやめている。アウトプットの時期とカタチが決まったものだけ、聴き込むようにして。)


流れができた今、本当に満足しているし、健康である。もちろん、反省点は山のようにあるし、もっとこうしたいという気持ちもあるが、とにかくカタチにできてただただ嬉しいです。協力してくださったミュージシャンの方々、スタジオを貸してくれたあいさんやかんたろうさん、ピークアクションさん、全てのぼくのわがままや無茶振りを引き受けてくれたエンジニアのそんくん、この活動を理解協力してくれている家族、この機会を与えてくれたあべちゃん、本当にみなさん、感謝しています。


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