小説現代ショートショートコンテスト入賞作品　「追憶」

　　追憶
　　　　　　　有原 悠二

　思えば兄はいつもぼくの前を歩いていた。頼れる兄としてはもちろんのこと、ときには乗り越えたい壁であり、また負けたくない敵でもあり、仲のいい友でもあり、いつまでも追い抜くことのできない存在だった。
　兄は高校を卒業すると、進学のために東京に行った。それはぼくがまだ中学三年生の頃だった。ぼくは表面上、嬉しく振る舞っていたが、正直なことをいうと寂しかった。
　ちょうどその頃、ぼくは時間という概念に不思議な感覚を覚えていた。これまで一緒に暮らしていた兄が、いまはもう家にいないのに、いつのまにかそれが当たり前になっている。ときどき鳴る電話と、正月に帰ってくるだけしか会わなくなっていた。ずいぶん昔からこうだったかのように、なんにも疑問を感じなくなっていたのが不思議で仕方なかった。

　時間は流れる。
　ぼくもいつの間にか高校三年生になっていた。進学は東京に行こうと決めていた。兄の影響かは分からないが、ずっと前から決まっていたことのような気がした。
　大学も決まり、一人暮らしの下見も兼ねて、ぼくは東京にいる兄に会いにいくことにした。東京で兄と会うのは、それが初めてだった。
　緊張と不安が入り混じる中、ぼくは兄を待っていた。
「よ、久しぶり」
　振り返ると、兄がそこにいた。しかし、東京で会う兄は、どことなくぼくの知らない兄だった。
　なにかが違う。
　そんな違和感を抱えたままアパートの下見を終え、その日は兄の部屋に泊まった。そのときに交わした約束を、ぼくはいまでもはっきりと覚えている。
「お前が二十歳になったら、行きつけの居酒屋に連れて行ってやるよ。約束だ――」

　時間は流れる。
　月のきれいな、静かな夜。
　ぼくは今日、二十歳の誕生日を迎えた。
　兄の行きつけの居酒屋に行く日が、ついにやってきた。
　雑居ビルの三階。
　無愛想な店主が、少し驚いたような顔をして出迎えてくれた。
「お客さん、何名？」
「二人」
　指をピースにしてぼくは言った。
　初めて入った居酒屋なのに、どこか懐かしさを感じる。少し早い時間に来たせいか、まだ他のお客は誰もおらず、ぼくはそっと、テーブルに座る。
「とりあえず、生ビール二つ」
　店主が不審な顔つきでこちらをのぞき見た。ぼくの顔がまだ幼く見えるからだろうか。
「さあ、お兄ちゃん、乾杯しよう」
　兄は何も言わずに、ただ、静かに笑っていた。
　ぼくはジョッキを兄の杯にぶつけた。慣れない手つきのせいか、少し泡をこぼしてしまった。
「……乾杯」
　ぼくは静かにビールを口にする。
　ああ、苦い。
「やっぱりビールはこうでないとね」
　ぼくは分かったような口をきいて、ぎこちなく笑った。
　兄と会うのは久しぶりだった。ぼくは兄を追うように上京したのだが、会うことは一度もなかった。
「昔はよくケンカもしたよね、お兄ちゃん。今日は連れて来てくれてありがとう」
　兄は静かに頷くと、そっとビールを口に運んだ。
　その瞬間、目の前にいた兄が、ぐにゃりと歪んだ。
　壁に掛かっている時計の針が、逆回転に、逆回転に、逆回転に――。

　一昨年、兄は泥酔の末、自殺した。
　両親は泣き崩れたが、ぼくは泣かなかった。
　ただ、兄の後ろ姿を鮮明に思い出していた。
　兄はいつだってぼくの前を歩いていた。
　窓の外で、月がゆらりと滲んでいく。
　――約束だ。
　いつかの兄の言葉を思い出し、ぼくは静かに席を立った。
「すみません、お勘定」
　テーブルには、空のジョッキと泡のしぼんだビールが一杯。

　兄が最後に口にした酒は、一体どんな味だったのだろうか。
　絶対に不可能だと思っていた、ぼくが兄を追い越すということを、時間という概念が可能にしてしまう。
　時間は止まらない。
　追い越したその瞬間、いったい兄はどんな表情をしているのだろうか。
　ぼくは振り返って、とびっきりの笑顔を見せつけてやるつもりだ。

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