写真エッセイ〜2024年8月〜
撮れなくて無駄撃ち
2024年の夏は、ほとんど写真を撮らなかった。猛暑の中でも散歩はしていた。鞄の中にカメラが入ってなくて後悔した風景は3箇所くらい。心から撮りたいと思える風景に出会える確率なんてそんなもんだろうし、3箇所もあれば多いくらいだと思う。例えば、20年分の写真を300頁にまとめようとすると、1年分は平均15枚になる。月1枚あれば十分なのである。こう書いてしまうと、私がこれまで歩きながら撮ってきた何十万枚もの写真は無駄なものに感じられるかもしれない。無駄じゃないと言い切りたいが、今振り返ると7割くらいは無駄だったかなと正直思う。だけど、残りの3割くらいのために必要な無駄撃ちだった。こうしてネタにもできたのだから、また気が向いたら意味のない無駄撃ちをしても面白いかもしれない。
プライベートが充実して忙しいって何なん?
後で編集する体力が落ちたのか、撮る以上の時間を写真に割きたくないのか、おそらく後者なのは確実であり、その理由もハッキリしている。「ポケモンGOに夢中なんだろ!」っと、ボクの近況を程々にご存知の方は推測されるかもしれない。それもあるが、それだけではない。ブログなどに「プライベートが充実して忙しい」と書かれていると、「プライベートって何やねん!」と突っ込んできたけれど、ボクが写真を撮った後の作業ができない理由はプライベートが充実して忙しいからだ。こんな台詞を使うようになるなんて、10年前のボクにはまったく想像できないだろう。今後、SNSの更新頻度が高くなったら、「プライベートが薄っぺらで暇になったんだな」と思って欲しい。そのときボクがどんな写真を撮るのか、想像すると少し怖い。写真に触れたくても触れられなかった状態から解放されるってことは、HUNTER×HUNTERの蟻編でキルアが覚醒したときくらいの変化があるはずだから。そのためにも、写真への欲求は吹きこぼれない程度にぐつぐつと熱し続けなければならない。貪欲に。
お盆休みに子どもと一緒に実家へ行くと、両親から「ありがとう」と言われた
ありがとうと言われると、ありがとうと返すことがほとんどだ。日常会話で、「どういたしまして」と言った記憶がほとんどない。中学校の英語の授業でユアウェルカムは習ったけれど、小学生の国語や道徳の教科書に「どういたしまして」という単語は載っているのだろうか。小さな子どもたちが公園でおもちゃの貸し借りをしているときに、「どういたしまして」とか、「いいよ」という言葉は聞いたような気もする。数年前のことなのに、記憶がすでに曖昧だ。こんな頼りない記憶力のボクだけど、子どもの頃に祖父母の家に遊びに行くと、「今日は来てくれてありがとう。また遊びにおいでよ。」と言われたことは覚えている。ご馳走になったり、おもちゃを買ってもらったりしているのに、「どうしてありがとうって言われるの?」と不思議に思ったからだ。
大きくなるにつれて、孫に会えることが嬉しいから言ってくれていることは理解できたけど、どういう感覚なのかは親になるまで分からなかった。子どもの顔を見せてあげたいという気持ちはあるけど、なかなか時間が確保できない。「今度いつ遊びに来るの?」なんて、LINEが届くことはないけど、家に両親2人だけで過ごしている様子を想像すると少し切なくなる。1人で実家に帰って、近くの喫茶店で子どもたちの近況を話すようになったのもそういう気持ちの表れだと思う。だから、盆休みに子どもたちを連れて会いに行けて本当に良かった。固定電話をおもちゃにして、従兄弟と一緒にキャーキャー騒いでいた。その様子を母がスマホで記録していた。後で見てみたら、悲鳴しか聞こえないけれど、画面の中で笑顔ではしゃぐ様子は見ているだけで笑顔になれた。
子どもの映像を見て微笑む親。親の映像を見て笑い転げる子ども。夏休み最終日に、布団の上で子どもたちと遊んでいたときのこと。ボクは糞転がしのフンのように転がされ、襖にベタっと張り付くように指示された。何かのアニメで見たシーンの再現だろうか? 言われるがままに襖と密着していたら、「動画を撮ります!」と宣言されて、タブレットで転がされてから襖にベタっと張り付くまでを記録された。手と足を綺麗に伸ばせているか不安だったけど、撮れた映像を見ると90点くらいの仕上がりだった。大きくなるに連れて新しい遊びもどんどん作られていて、ぐったりすることも増えた。ついていけるとこまでとことん付き合っていきたい。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。それでは来月も素敵な写真生活をお過ごしください。
写真や旅のことだけじゃなく、今ボクが気になっていることをnoteに書いています!読んでいただきありがとうございます!