心を蔵するもの

惟式の武術の始まりについて語る。

僕が本当にしたいことは武術で、武を極めるために文を窮めようとしている。

なぜ武術を極めたいのかというと、強くなりたいからで、なぜ強くなりたいのかというとそれは「弱い」から。

現在の僕は強いのか?と問われたら弱いと答えるしかない。

それは、弱さの追求から惟式の武術の追求を始めたから。

なぜ強さを求めているのに強さを追求せずに弱さを追求しているのか?

それは僕が最も弱い人になることでしか最も弱い人を強くする方法や技術が身に付かないから。

強さとは還元すると瞬発力と持久力になる。

最も速く、最も長く、最も力強くを追求するのが武なら、文の追求とは最も遅く、最も短く、最も力が弱いを追求することになるだろう。

僕がこれまで生きてきて得た教訓がある。

それは、己の分を知れ。

それは言葉を変えれば己「自」で自分を知ることということになる。

これは何事においても通用する普遍の真理。

それが武術であれ、魔術であれ答えは同じ。

自分とは何か?

自分があるということはどういうことなのか?

そこを考え、思い、感じない限り自分にとつての最適な一など見つけようがない。

それこそありとあらゆる武術を研究して来たけど僕の武に対する結論は「歩」でしかない。

歩とは、止まる少し。

つまり、止まる少し、少し止まる。

人が生きるということはどういうことか?

死んでいる人と生きている人の異なりは何処なのか?

それは一言で言えば息をしているかどうかということ。

いきは息で域。

自分の心の領域が動かしているものそれが肉体で、しかし肉体には現実には自分の心で動かせない場所がある。

それは心臓。

最も生きるのに大切な自分の心臓が自分の心で動かせないという事実を人は見ようとしない。

僕は鼓動と呼吸から武術の根源を探っていった。

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