1月17日

結婚してまもなく、東京から神戸へ移り住み、2015年の秋から2020年の夏まで、約5年を過ごした。

東京で「震災のとき」とか、「震災の後」という話をしたとき、それは2011年の東日本大震災をさした。
(今は直近の能登半島地震のことかもしれないが)
しかし、神戸にいた頃、「震災の…」という話になったとき、それは、1995年の阪神・淡路大震災をさすものであった。私が神戸に住んでいた当時、20年以上を経ていてもなお、神戸やその近郊の人々にとって、震災といえば1.17のことだった。

1995年1月17日。私は小学4年生だった。
朝起きてテレビに映っていたのは、黒煙に包まれる街の無惨なすがたや、阪神高速が横倒しになっている信じがたい光景だった。
あとはあまり記憶に残っていないが、連日テレビのニュースは震災のことばかりで、学校の朝の会で日直の生徒がやることになっていた新聞記事のスピーチも、毎日震災関連のものばかりだった。私も、震災関連の記事の中から何か選んで持って行ったと思う。間違いなく、とてつもなく衝撃的な出来事だったが、やはりどこか他人事だったようにも思う。小4の私にとって、600km先の世界はとても遠かった。

大学生の時、学科の仲間に神戸出身の人がいた。何かの時に、
「阪神大震災の地震の後、前日の残り物のおでんの鍋がひっくり返ってこぼれていた。そのこぼれたおでんを集めて食べていた」
という話を彼はした。
私や周りの数人は、ふーんそうだったんだとか、そんなの食べてお腹痛くならなかった?とかいうような反応を返したのだったと思う。あやふやだが、その話をさほど重いものとは受け取っておらず、彼にとってまったく的外れな反応だったのだろう。
彼は、
「ほんとうに、何も食べるものがなくて、大変だったんだからな」
と、低い声で呟いた。
普段あまり真面目な話も深刻な話もするキャラクターではなかった彼の目に、涙が溜まっているように見えた。ずっと消えない、震災のつらい記憶の象徴が、彼にとってはその冷えきったおでんだったのだろう。
きっと、あの震災を経験した人たちそれぞれが、そんなふうに、ずっとそれぞれの形で、心の中に傷を残しているのだろう。何十年たっても。


2020年の1月。世の中にはじわじわと、コロナ禍の影が忍び寄りつつあったが、まだ大半の日本国民は、ふつうの日常を送っていた頃。
関西では、あの震災から四半世紀の節目を迎えるにあたり、テレビ番組で連日、震災とそこからの復興の足跡を話題に取り上げていた。
その頃、私は妊娠中だったが、切迫早産で入院していた。切迫早産とは、「早産しそうな切迫した状態」であり、それで入院するというのは、ベッドで常時安静にするとともに、24時間、張り止め(子宮の収縮を抑える薬)の点滴につながれるということであった。
私は、東京の実家に帰って、里帰り出産をするつもりだったが、この入院によってそれがかなわぬこととなり、想定外の出産&育児生活のプランの練り直しに、悶々と頭を悩ませていた。
1月も半ばに差しかかると、妊娠36週(10か月)を迎え、ついに待望の「もう生まれちゃってもok」な時期がやってきた。
年明けすぐに、最後の里帰り出産チャンスをかけ、退院にむけて張り止め点滴を外した時は、とんでもない張り返し(子宮収縮)が起こり、あやうく早産しそうになったので、やむなく再度点滴につながれ、退院を諦めざるを得なくなった。その時は半日ほどさめざめと泣いた。
しかし、36週を迎えれば、胎児の体はほぼ完成しているので、たとえ点滴を外した途端に陣痛がきたって、そのまま産んでも全く問題なしだ。
ついに、点滴を抜いて退院(または即出産)できる。1ヶ月半にわたる、不自由な病床生活から解放されるのだ。
その運命の日は、1月16日、妊娠36週4日と決まった。
当日の昼間に点滴をはずし、一晩越せれば、翌朝1月17日に退院できる。越せずに陣痛が起これば、そのまま出産することとなる。さあ、どっちに転ぶだろうか。
どうせ出産のときは遠からずやってくる。いよいよ産むという覚悟はまだできていなかったが、なるようになれと思うしかなかった。
1月16日の昼前に、1ヶ月半繋がれ続けた点滴を外した。内服の張り止め薬(点滴に比べたら全然弱い)を飲みながら、ひたすらに、全意識を自分の下腹の様子から逸らすことができぬままに、時間の過ぎるのを待った。
夜になり、だんだんと下腹部と腰の痛みがひどくなってきた。何日も前から、前駆陣痛に悩まされてはいたが、点滴がなくなったせいか、一段とその痛みは強かった。眠れない。このまま、出産を迎えてしまうのだろうか。どうかそのまえに一度家に帰りたい。突然入院したから、家の中はまだ散らかったまま(夫は片付けが出来ない!)、新生児を迎える仕度はまるで整っていないのだから。
このまま産まれてしまったとして、おそらく出生のその瞬間は日付をまたぐだろう。
2020年1月17日が我が子の誕生日になる。
震災から25年のちょうど節目のその日に、神戸で生まれること。それはなんだか重い運命を背負わせてしまうのではないかしら。この土地で暮らしていたら、これからも長く、毎年1月17日には、震災の話題が取り上げられ、人々は午前5時46分に黙祷する。我が子が物心ついて、自分の誕生日に毎年語られるかつての痛ましい災害について知った時、どんなことを思うだろう。
そんなことを考えているうちに、真夜中を越え、夜が白々明けてくる頃に、私はうつらうつらしはじめ、いつの間にか眠りに落ちた。
目が覚めたときには、腹部の痛みは消えていた。陣痛は始まらなかった。前駆陣痛だけで終わったのだ。
かくして、私は退院し、1ヶ月半ぶりの自宅に帰れることとなった。帰宅までの道中、タクシーでほんの10分程度の道のりさえ、その間に突然産気づいたらどうしようと戦々恐々していたし、医者や助産師も「今日中に戻ってくるんじゃないか」と言っていたらしいが、意外となかなか生まれることはなかった。ヒヤヒヤしながら前駆陣痛と戦う自宅生活が、そこから10日ほども続いた。

その日、久しぶりの自宅でテレビをつけたとき、ニュースでやっていたのは、小泉進次郎氏と滝川クリステル氏の夫妻に、第一子が生まれた、という話だった。
自分と同時期に妊娠が報道されており、出産時期はうちより少し早そうだな、くらいに思っていたが、私が病院のベッドで前駆陣痛と戦っていた時に、滝クリは出産に臨んでいたのか。私は産まずに帰宅を果たしたが、そちらはめでたく産まれたのか。

ということで、1月17日は、私にとって、
阪神淡路大震災のおきた日 であり、
切迫早産入院からの退院記念日 となり、
なおかつ
小泉氏&滝クリ夫妻の長男生誕日という、他人の記念日まで合わせて記憶されることとなった。
たぶん、生涯この3つはセットで、毎年思い出し続けると思う。少なくとも今年まで4回そうだったので、これからも毎年そうなるに違いない。

変な形ではあるが、これからもずっと忘れずにいる。


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