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頭のなかでは大冒険、現実は進捗0の現在地 という話。【考え込むINFJ】

こんにちは、いかです。

以前の記事で、少しだけ
頭の中でぐるぐるぐるぐる考えるということを書きました。

日々頭の中でたくさんの考え事をしてしまいます。
考え事というか、想像とういうか、妄想というか。

それが疲れるとか、嫌だという話ではなくて、
現実とは違う場所でたくさんの経験を得ているんです。というお話。


私は魔法使いで時代の犠牲者で孤独者で

たとえば、冒険もののアニメの主題歌を聞いているとき
頭のなかで大冒険を追体験していて
私は魔王を倒した勇者一行の魔法使いで、
鮮明でいたい思い出を抱き締めている。

たとえば、今よりも命が軽かった時代を歌った歌を聴いているとき
有り得ない程に
キリがない程に
無駄がない程に、我らは尊いと噛み締める。

たとえば、「らしさ」って何って悩むひとの歌を聴いているとき
自分の心の声を代弁してくれているようで
フォーカスのあってない被写体が
泣いてようと睨みつけようとどうだっていいんだって諦めがつのる。

(歩きながら音楽を聴いているときが、今は一番外界をシャットダウンできるからその時の体験が多い。他には映画とか、小説とか。学生時代はファンタジー文学が一番の体験場所だった。)

ファンタジーの効能

大学入試~大学時代に、私はファンタジー文学(児童文学)ついて少し勉強していました。

その時の考えを少しお話しします。

「児童文学・ファンタジー文学は有害だ、
夢見がちで現実と区別がつかなくなる」という意見があります。

わたしは以下のように思います。

現実と区別がつかなくなるなんて
全くの的はずれ、真逆です。

児童文学・ファンタジー文学の効能は
「本の世界での体験で得た勇気や強さを現実世界に引き連れて戻ってこれるところ」です。

※私の児童文学や創造力に対する考え方は、
河合隼雄さんの「子どもの宇宙」という本に大きく影響を受けています。

子どもの中には、それはそれは大きな宇宙(想像力)が存在する。
その宇宙は現実世界の常識とか、勉強や仕事とか、そういったもののせいで心からどんどん追いやられていきます。

でも、その宇宙は見つけにくくなったいるだけで、大人になってもそこに存在しています。
子どもよりも、むしろ大人の方が児童文学(ファンタジー文学)に触れて
自分の中の宇宙を再認識すべきだと、私は思うのです。

そして、文学の世界で得る「勇気や希望」を握りしめ
仕事や生活の、現実の苦痛に立ち向かい、勝っていく。

大人こそ、もっとワクワクして生きることができると思います。

そう思いたい。

帰る場所は「現在地の私」

でも最近、現実世界に帰ってこれなくなっているように感じるのです。
心は経験を積んで帰ってくるけど、現実の私は何も変わっていない、現在地の私のまま。

生まれる世界を間違ったかのような感覚。
たくさん経験をした心は、疲れた?やりきった?感覚のことが多いから、こんなに経験したのに何も変わっていない現実に絶望する。

当然のことなのに。
小さい頃、児童文学を読みすぎた弊害なのでしょうか。
そうは思いたくないけれど。

だって、ファンタジーの世界の方が圧倒的に魅力的だから。
現実は絶望することばかりでこわい。
捨てようと思ったことはないけど、ずっと一人で閉じ籠っていたいとは思います。

自分の「宇宙」を味わい尽くしたい

でも、このまま何も成さずに時間を浪費して
気づいたらおばあちゃんって言うオチはなによりもこわい。

だから、もう一度自分の宇宙を隅々まで探検して
私の宇宙を味わい尽くしたい。

そうすることで、
私は何が好きで
何が嫌で
何に興味があるのか
私の根底を理解できると思うから。

まず第一歩は、心が揺れる物語を旅することから!
小学生のとき読んでいた『タラ・ダンカン』か
ずっと原作を読んでみたかった『指輪物語』『ホビットの冒険』『ハリー・ポッター』か。

悩ましい。。でも選択肢がたくさんあるなんて、なんて贅沢なんでしょう!


想像力がたくましいことが仇になることが
大人になってからは多いけれど、
それでもこれは私の大事な一部分だから
愛でて育てて私にとって心地よい場所を探し歩きます。

多くのファンタジー文学の主人公がそうであるように、
帰還後、進捗0の現在地に絶望する前に、
握りしめた勇気や希望で
0.1歩でもそこから進む糧にします。

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