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私のなかの反出生主義について

私のなかには、反出生主義的な思想が少しだけある。ぴったりその思想に寄り添っているとは思わないし、絶対的ではなく、ゆるやかな支持だとは思うけれど、それはもうここ10年ほどは、消えることなく抱き続けている、と思う。
具体的には、生まれてきてしまうこと、そして生きることには必ず苦しみが伴うので、ならば新しい命を生み出すのは残酷な罪なのではないか、という感情があるということ。
苦しいこともあれば楽しいこともあるという反証は成立せず、楽しいことがあるからなんだというのだ、苦しいことなんてない方がよかろうと考えるし、では生きているのが辛くて今にも死にたいかというとそうではなくて、仕方なく生まれてきてしまった以上できるだけ楽しくするほかないし、自分の生を肯定するために生きていくしかないけれど、生まれなければそもそもそのような行動をとる必要がなかったので、なんか徒労だよね、と感じたりしている。

けれど私はこの考えを人に強要しようとか、周囲にもそうであって欲しいとか思わないし、自分のなかにも「たとえ罪だとしても、子どもを産み育ててみたいかもしれない、けれど、そんなことしていいのか…」という迷いは絶えずあって、己のエゴと理性の間で戦っているような状況が続いている。
とはいえ全般的に見たら、出産という概念は素敵なものとは思っていなくて、人間を残酷な動物たらしめる、残酷な行為である、と考えていることは事実だ。

さて、1992年生まれの私は今年30歳になる。
周囲にも出産をする人が増えてきており、その多くが望んで妊娠し、新しい命を祝福する人々である。そんな彼女たちに対して、私は友人として、配慮として「おめでとう」と言う。それは心からの言葉だ。友人の幸福は自分にとっても幸福で、うれしい。私が反出生主義的思想をもつからといって、友人の出産を非難する権利なんて万に一つもないし、そんな気もない。ただ…「自らの妊娠や出産を友人に発表したら、きっと祝福してくれるだろう」と、彼女たちが自覚的なり無自覚的なり、思っているだろうことについては、うっすらとした疑問を感じるし、快くは思っていない。私は感情を隠すのがへたくそで、生真面目で融通がきかないから、これまで少しずつ、近しい人々にはそうした立場をこぼしてきたつもりだった。友人にとっての慶事は祝うけれど、それはその人らにとって慶事だから祝っているだけであり、全般的な思想としては妊娠出産に対してマイナスイメージをもっていること、それは子どもが苦手だとか、子どもを産むことに興味がないからとか、自分の時間が減るとか、そういった理由からではなく、生まれてくる子どもを大事に思うからこそ、80年も生きてしまう生物を守りきれそうにないし、必ずしも幸せになるとは言えない世の中に生み出す恐怖が絶えないからである、と。

けれど妊娠や出産は社会通念として慶事なので、私のこうした思想や理念とは裏腹に、かなり公的な場で話題として共有される。芸能人の妊娠や出産がニュースになることもそうだし、もっと身近な場、職場でも友人同士のグループでも、「めでたい話、ポジティブニュースなので共有していい」という暗黙の了解があるように思う。そのとき、たとえば私のような存在は「目に見えないもの」になるし、反出生主義でなくても、世の中には妊娠や出産のニュースを見聞きしたくない人や苦しく感じる人はいるけれど、社会通念や場の感覚からわりと「目に見えないもの」とされる。
ある意味、仕方のないことだと思う。全方位に配慮していたら、なにも話せなくなってしまう――というのは、日々情報を編集している人間として感じたことのある束縛でもある。私がことさらに、「目に見えないもの」とされている人々のことを想像してしまうのは、「この話を今ここでしても大丈夫だろうか」などと考えてしまうのは、もともとの性質や自分自身がマイノリティの立場に立つことがあるから、というだけでなく、一種の職業病だったりもするので、些細な世間話にまでそれを求めることはできないし、自分でだってやりきれない。芸能人の出産ニュースにいちいち「この人も残酷な行為を…」とは思わないし、うれしそうに報告する姿を見れば、反射的に「幸せそうでよかった」と思うくらいの善性ももち合わせている。

けれど、少なくとも近しい人々にはわかってほしい、という感情は消えるわけではない。

たとえば、肉や魚を食べない友人がいたとして、その人がなぜ食べないのかを知らなければ、その人の前で自分は肉や魚を食べてもいいのかわからないし、肉や魚を食べることを話題に出していいのかわからない。単に、「あの人は肉や魚を食べないみたいなので、サラダを提供した」というのは、結局理解しようとしていないということになる、と私は思う。
その人の体が肉や魚を受けつけず、「本当は食べたいけれど、体に合わないから食べられない。でも食べるのはいいことだと思うし、みんなはぜひ食べてね」というふうに考えているのであれば、遠慮しながらも目の前で食べるだろうし、「生物の命をいただくことに抵抗がある。残酷な行為だから。でも、みんなが食べることは止めない」というふうに考えているのであれば、たとえば私なら、少なくともその人の前で肉や魚を食べないだろう。もちろん最適解などなくて、「それでも自分は生物の命をいただくことは素晴らしいことと思っており、ぜひ食べたいのだ」という強い信念をもって、その人の前で肉や魚を食べまくることを選択する人もいるかもしれないし、それも間違いではない。けれどこんなふうに、その人がなぜそのように考えているのか、背景を考えて、自分なりの対応を生み出すこと――それが的外れだとしても――が、「配慮」なのだと私は思う。

「私は肉や魚の命をいただくのがかわいそうだから食べないことにしている。けれどみんなにもそうして欲しいわけじゃない。おいしいのは知っているから、食べたくなることもある。でも本当にそうして食べていいのか悩んでいる」という考えを共有してくれた人の前で、「今年のふるさと納税は絶対に宮崎の豚肉。でも北海道のカニも捨てがたい!」なんて話題で盛り上がるのは、おそらく多くの人にとって配慮がなく映ることだろう。けれど社会的に慶事である出産ごとに対しては、社会通念やマジョリティの思想のもとに、それらが勘案されることが少ない。
私は、私が反出生主義的な思想を抱いていることを打ち明けた人々に目の前で出産についてイキイキと会話されるとき、菜食主義の人の前でどこ産の肉がうまいとかそんな話を、この人らはするのだろうか、と考える。「え、あなたはお肉が嫌いなだけでしょ?」「あなたはお肉を食べたくないだけかと思っていた」とか言うのだろうか?

こちらの「配慮」を搾取されているような気分になる。

出産した人のところにあと何人か反出生主義的思想の人を集めて行って、「とはいえ出産ってとても残酷~」という話を目の前で繰り広げられるほど、私は無遠慮で悪辣な人間ではない。産んだ人には産んだ人の、絶対に産みたかったストーリーや信念があり、それはとても大切なもので、それを脅かすようなことをわざわざ人数集めて目の前で繰り広げるのは人としてナンセンスで想像力がなさすぎる。

なにが言いたいかというと、多数派の思想というのは少数派に対してそれくらい、無自覚な暴力をはらんでいるということ。きっと私の友人のなかには、私の思想を否定したことはない、フラットに受け入れたはず、と感じる人もいると思う。けれど、多数派が少数派に対して「否定しない」「フラットに受け入れた」というのはそれだけですでに、一方的なのだ。否定も肯定もなにも、そちらがジャッジする権利はもっていないし、私の考えは「フラットに受け入れてもらう」ものではない。と、これは自戒も込めて。きっと私もそうやって無自覚な暴力をだれかに向けてしまっていることはあるのだから。

もう30歳だ。
心地よい空間、居場所はもっとセレクトしていきたい。私は私の人生を肯定していきたいし、友人にもそうであってほしい。相互理解が得られないなら、離れるしかないこともあるし、ときにそうした鋭利な本心を見せなければならないことはきっとこれから増えていく。
私は大事な人たちには自分のことをわかってほしい、という甘えをもち合わせた人間で、言語化能力くらいしか取り柄がないので、こうして文字を書き連ねてなんとか理解してもらおうとしていて、それもまた暴力的だという自覚もある。けれど寄り添っていくにはやっぱり、言葉を尽くすしかない。

最後に、これまで私は友人らに「子どもがいたら楽しいかなと思うことはある」、「欲しいかもと思うことはある」とこぼしたことはあって、それは紛れもない本心だ。誤解しないで欲しいのは、私は子どもが絶対に欲しくないわけではないということ。ただ、「そんなにひどくて残酷なことをしてよいのだろうか」と思索し続けている私に対して、「子どもを産むのってハッピーだよ!」とか言うのが的外れであるということも分かってほしい。ハッピーなことだと思ってないから考え続けているのだ。たしかにハッピーなことかも! と方向転換できるくらいの軽めの思想ではない。その根底の違いを、分かりあえる日が来たらいいなと思うし、友情によって相違を乗り越えられる日が来たらいいなとも思っている。

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