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春はたけのこ


お隣さんちの裏が竹林という立地の実家では、毎年春になるとたけのこをどっさりもらう。

春先のとれたてのたけのこは苦みがなくてとてもおいしい。
こんなたけのこを早々に知ってしまったものだから、私は幼少期から水煮のたけのこを受けつけず、すっかり旬のたけのこしか食べないワガママ女に育ってしまった。

両親は子どもながらに旬の味を感じ取る舌をもった娘が誇らしかったのか、たけのこの季節はよく炊いてくれて、それも穂先のやわらかい部分ばかりよこしてくれたものだった。

東京で暮らすようになってからも両親は春には処理済みのたけのこを届けてくれたりしたけれど、さすがに 30 歳を超えた今ではそこまで実家との交流もない。そこでここ数年は、自分でたけのこを買って処理している。

東京のスーパーにだって、皮つきのたけのこは並ぶ。季節ものの値段だからか、都内価格だからか、少し高いし鮮度だってそこまでよくないけど、それはもう目をつぶって買うしかない。この時期のたけのこしか、私は食べられないのだから…。

振り返れば田舎にある実家では、旬の食材があふれていた。
このさき実家で暮らすなんて金輪際ぜったいにむりだけど、私はその「旬」が恋しくて、結局東京で丁寧な暮らしと呼ばれるものを送ることになっている。

春はたけのこ…から始まって、山菜をいそいそと天ぷらに。初夏には鮎とそら豆ばかり求めてしまう。自家製のらっきょう漬けに梅仕事、夏はとうもろこしご飯を炊いて、きゅうりやなすを漬ける。秋はかぼちゃをポタージュに、さんまははらわたごと食べたい。冬はせっせと柚子皮をむいて保存し、おせちはつくらないけれど雑煮はつくって、部屋を暖めるためにパンでも焼こうか。

いつのまにか実家で覚えた手仕事やレシピを、大人になってから覚えた手仕事とレシピが越えていく。母の味を再現していた 20 代前半のころと違って、今は私には私の味がある。


生活が自分のものになるということ。


季節を送るなかで生活が自分のものである実感を得られなかった頃は、不安で不安で、自分の心身を損ねることしかできなかった。自分の心身を雑に扱うことでしか、自分を所有しているのが自分だということを確かめられなかった。でも今は違う。らっきょうの泥を落としながら薄皮をむくとき、さんまの皮がはじけるのを眺めるとき、たけのこにすっと竹串をさすとき、私の生活は私だけのものだという温かい実感を得られる。この方がずっといい。今日は注文していた梅が届いた。さぁ、梅を一粒ずつ愛でようか。

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