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49.教える側のエゴが身体を制限させる

わたしたちの仕事は「〜先生」と呼ばれることが多いです。

先生の語源は先に生まれた人から来ているそうです。
先人から教えを乞うという構造は根強く残っています。

先生と呼んでいただけるのは嬉しいですがここ数年考えていました。

この教える側と教わる側という関係が相手に制限を生んでしまっているのではないかと。

私の理想の相手との関係は、ふらっと近所に立ち寄るような感覚で来てもらいそこで身体の相談を聞く。
その中で最近私生活でこんな事があった、身体の調子がどう変わったなどを聞き、身体を動かしてみる。
気づいたら身体の不調が取れている。

そんな形が理想だと思っています。

しかし誰かに教えるとなるとつい何かの型に当てはめてしまいがちです。

このメニューはこのフォームでここを意識して。
以前はこの数が多ければ多いほどいいとおもっていました。

自分が正しい、信じているものがその人にとって当てはまるかどうかはわかりません。
よりたくさんの人に当てはまる、選択肢を持っておくために、エビデンスや知識をもつのは前提としてそれの出し方には細心の注意を払わなければいけません。

今はその人がどういう人生を歩んできたのか、それが動きにどう現れているのか。
そこに重点をおきます。

何か運動を行う際に筋や関節に意識が向いてしまうと運動自体が変化してしまいます。
ボディメイクなどの場合は別ですが、運動はその個人が環境に適応しようとした結果として現れます。

なのでセッション中の私は相手を見守るという表現が近いように思います。

多様な事が受け入れられるようになった今では学校教育も非常に難しくなっているのではないでしょうか。

「それってあなたの感想ですよね」

こんな声が聞こえてきそうな教育の例が溢れています。

教わる立場から徐々に教える側の立場が増えている今どう振る舞うべきなのか。

いずれは説法のように誰かに何かを説くようになるのでしょうか。

子供であろうが大人であろうが今を生きている事には変わりません。

違った世界を互いに共有できる。
そんなリスペクトに溢れた世界になればいいなと思っています。

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