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小林について

   小林が黒焦げになったのは、思うに果たして何年前の出来事だったろうか。容量の乏しい私の記録媒体からすれば、もう何もかもが非常に曖昧模糊で、どの場面も中途で尻切れ蜻蛉の、近くのものも遠くのものもピントのぼやけた、信用ならない古臭い代物になってしまったが、たしか、四、五年前の、季節はイカ臭い初夏の頃だったろうと思う。そう、まだ鼻を刺すようなペーソスは漂っていなかった。私の記憶が、ちょっとでも正しければの話だが。

   小林は、中学二年のいつからか忘れてしまったが、共通の学習塾で知り合ったクラスメイトの一人であった。

   当時、私は不勉強で何の考えも持ち合わせていなかった。二親に月謝を払わせ、真面目に勉学に励むわけでもないのに、遠い町の小さな学習塾にまで麓から自転車を走らせては寧ろ遊び半分で通っていたのだった。その小さな学習塾に、別の中学で同学年の、同じく不勉強な小林裕弥がいたのだ。

   小林は背が低く、髪のさらさらして長く、しかるに態度の横柄な、いやに生意気な少年であった。見た目は私よりも随分と幼く、顔立ちはさわやかな血色の良い童顔であったが、その幼げな容姿からは想像できぬほど、やんちゃで、妙に大人びたところもあった。それから、よく、女は愛嬌、と申すが、これは若い男子にも当て嵌まる。小林には小動物に似た愛嬌があり、どこか憎めないところがあった。

    彼は、よく塾の講師に怒鳴られていた。それは彼が、すぐに巫山戯て、講師の体型や服装などを馬鹿にしたり、わけの判らない話を持ち出して授業を掻き乱したり、なぜか勝手に教室から出て行ったりと、身勝手極まりない態度であったからで、私は殊勝なふりをし、それを笑って見ていたが、歳下や弟を眺るような父性の目線もどこか内奥にあった。

   不真面目で、聡明さの微塵も無い私らは、すぐに意気投合し、お互いの家を行き来する仲になった。私は山の田舎者だったから、彼から町の遊びを随分と教わった。立ち読みのできる本屋、何でも揃うコンビニ、ショッピングモール、ゲームセンター、カラオケ、ボーリングなど、私の住む山間の集落にはそのような娯楽は皆無だったから、私は彼と交友関係を持ったことに依って、それを体験する機会を増やし、また、田舎とは人種の異なる友人を彼を介して何人か拵えることができた。

   私らは共通の趣味もあった。彼のアコースティックギターの腕前は中学生にしては素晴らしいものだった。父親の影響でギターをはじめたらしく、私も当時セックス・ピストルズの影響でギターをやっていたが、小林に較べるとかなり技術が劣っていた。

   私らはお互いの学ランを交換してみたり、アクセサリーや香水、エロ本、漫画やゲームを共有したり、それから、何人かで集まってどうしようもない悪戯をしたり、バス釣りをしたり、友人宅の一室で朝になるまで騒いだり、会えばいつも自転車に二人乗りをし、そのような思春期に尤もらしいことをして、日々を過ごした。全国各地、私らのように頭の悪い餓鬼はどこにでもいる。私の出会った、その中の一人。今までに拵えた友人の数は極少ないのだが、私の当時の友人の、印象的な存在の一人であった。

   高校受験は、私の方がうまくいった。小林よりも少し早くに塾を辞めてしまってから、私は商業高校に入り、小林も遅れて農業高校に無事に入学を決めた。それからはなんとなく疎遠になった。

   高校では、私は独力でまた人種の異なる友人を何人か拵えた。けれども私は、同じ高校の友人とはあまり気が合わなかった。それよりも、別の高校に入った、元々中学から部活の練習試合などで顔見知りだった森田や、その森田の幼馴染で高校には進学しなかった中岡の二人と特に親交を深めた。森田、中岡は同じ中学を卒業後、一方は公立高校、一方は進路を放棄(これには先天的、境遇的な理由がある)し、リズム感やビート感の異なるそれぞれの生活を送っていたが、家は近所のままで、親友同士の関係は変わらずに続けていたのだった。その二人の親友交歓に、私も混ぜてもらったわけである。

   私は、三十を越した今も、この二人とはずっと親交を持っている。私はもう長く遠く離れた場所に住んでいるため、稀にしか二人と会える機会はないが、連絡を取り合い、今でも故郷に帰れば親友交歓する仲である。

   実は、中岡については、残念だが今現在は距離を置いている。中岡は近年の荒れた生活の為に酒と情欲の底無し沼に溺れてしまい、家族をこれでもかと傷つけかなぐり捨てた挙句、自身はみっともないほどのアルコール中毒者になってしまった。そのせいで森田との友人関係も縺れてしまい、一方的に森田から縁を切られた状態にある。金の切れ目が縁の切れ目である。彼は森田に金の無心をしたのである。私は森田と会う度にいつも中岡についての耳新しい話を聞くようにしているが、改善の兆しは未だ見られない。彼は変わってしまった。

   ところで話を戻そう。

   森田は、小林と友人でもあった。小林は私と森田の共通の友人と云うわけだ。中学卒業後は滅多に会う機会がなく、暫くは疎遠になっていたが、森田と小林が同じ高校で、そこで知り合い、バンドを組んだと聞かされたときは、驚いたし、妙に可笑しかった。二年のとき、彼らの高校の文化祭を見に行ったが、体育館の舞台上で森田と小林がエレキギターを弾きながらぎらぎら歌っているのは、なんとも愉快な光景だった。

   高校を卒業すると、私は兵庫の専門学校に入り、皆は働き出した。森田は水産物加工、小林はたしか愛知のアパレル店、あの当時、たしか中岡は飲食のアルバイトをやっていた。

   そうやっておのおの社会に出て、あっと云う間に無残な数年が経った。

   森田からその連絡があったのは、おそらく四、五年前の、蝉の煩くなり出した初夏の頃だったはず。私の記憶が、ちゃんと正しければ。

   小林が死んだ、唐突にそう聞かされた。はじめは冗談だと思ったが、克明に聞けば聞くほど、それはついに冗談では済まされなかった。

   その日、小林は、父親から譲り受けたばかりの高価な乗用車で東名道高速道路のどこかのカーブを走行中、突然タイヤがパンクしたので、道路の脇に車を寄せて緊急停車させたそうだ。そして、慌てて発煙筒を探した。けれどもその保管場所が判らなかった。小林は父親に電話をかけた。元々は父親の車なのだから、電話で父親に聞いた方が早い。幸いに、父親はすぐに電話に出た。ちょうどそのとき、悪魔が忍び寄ってきた。発煙筒の場所を父親が息子に教えているとき、父親は、電話口から息子の、わああああ、と云う叫び声を聞いた。そのあと、電話が切れた。

   文字通りの断末魔であった。

   車が停車したその道は、事故の多発する地点にあるかなり急なカーブだったらしい。大型トラックがそのまま小林の乗る乗用車のケツに突っ込んだのだった。その結果、乗用車はぺちゃんこに潰されて大破。ガソリンに引火し、大炎上。トラックの運転手はパニックになり、小林は、黒焦げになった。

    葬式には、森田の他にも同年代の人間が沢山来ていた。仏壇の中に、久々に見る、金髪になった小林の写真が置かれてあった。けれども小林のあの童顔は、中学の時からまったく変わっていなかった。

   森田の他に、私の知らない、見たことも聞いたことこともない連中とともに、小林家から通りを挟んで向かいの坂の上にある墓地まで歩いた。

   墓前で手と手を合わせた。

   乾いた線香の香りが辺りに満ちた。

   小林家、と彫られた冷たく重い人口石の下に、彼がほんとうに埋められているのか、あまり実感が湧かなかった。遺体は損壊が激しく、黒い塊でしかなったので、別れを惜しむ間もなく、小林は早々に鬼籍に入れられたのだ。

   それからそのまま、漁港まで歩いた。小林の親族を先頭にして、夜の道をだらだら行列になって歩いた。海辺の町では生臭い潮風がどこにいても鼻につく。墓地から漁港までは歩いて二十分もかからなかった。

   漁港に着くと、よく知らない連中と、手持ち花火やロケット花火をした。

   私は、その花火の場で、誰よりも目立とうとした。ロケット花火を手に持って、そのままの状態で着火した。親指と人差し指の間を火花を散らしてすり抜け、ロケット花火は暗い海に三メートルほどしゅるしゅると潜ると、黒く濁った海に、ぼん!と光って散った。かと思うと、今度は夜の天空にするすると舞い上がって、中空で、ぱぁん!と鳴って弾けた。皆、それを見て面白がった。私は指を少し火傷して、衣服を煤だらけにしたが、小雨が降っても、花火は消さなかった。皆が寄って集って、無茶苦茶に花火をして楽しんだ。私はただ目立とうとした。

   小林家に戻ると、小林の部屋だった空閑におのおのが自由に座り込み、皆で酒を呑んだ。小林の両親が是非にとその会を薦めたのだ。

   そこで、多少の思い出話もした。聞くと、森田も含めて皆が小林と同じ高校の連中だった。中学からの同級生も何人かいた。私は肩身の狭い思いをした。私は小林のことを何も知らなかった。

   後日、森田と二人でドライブをしていたときのことだ。私が親に借りた車を運転していると、助手席の森田から、ふと一枚のMDを差し出された。小林が生前に書いたオリジナルの曲を、彼が独自に吹き込んで保管していたものらしい。私はそれを車のプレーヤーに差し込んだ。

   小林の自作の曲が流れた。彼のギターと歌声が、彼の幽霊となって蘇り、車の中に現れた。

   十曲ほど録音されていて、それぞれにちゃんと題名もついていた。そのうちの一つに、「自転車」と題した曲目があった。聴いてみると、可愛いあの子を自転車の後ろに乗せてなんたらかんたら、みたいな恥ずかしい内容だったが、柄にもなく、私と森田はそれを黙って聴いていた。音楽を聴くことは、原始的行為であるわけだから。

   それからもう何年も過ぎた。毎年、この季節になると、漸と小林を思い出す。彼は巫山戯た、からからのパンクスのように、ユーモアに満ち、ロケット花火みたいに飛んで弾けて、消えて無くなった、そんな感じだ。要するに、導火線が短かった。周囲の者は皆、火傷をしてしまった。

   私はごく稀に、再生ボタンを押すことにしている。忘れてしまうのも時間の問題だ。

   登場するすべての人物名は偽名だが、せめてもの弔いに、これを書いた。

   そしてこれを書く前、夜のベランダから、公園で花火をして騒ぐ若者たちの輪を見ていたのだ。その光景は刹那的で美しかった。

   その中の誰かが乱暴に振り回す手持ち花火の火花の輪の中に、小林の、浮遊する魂を見た気がした。

   見た気がしたと云うだけのこと。

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