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中岡について

   中岡のことを憶う。

   以前にも少し述べたが、彼は、破綻したアルコール中毒者である。

   所帯を変えては妻子への責任を幾度も放棄し、愛人の巣に住みついた挙句、寵愛をうけた二親にさえ見放された悪漢である。唯一の親友に金の無心をしてしまうものだから、一方的にその縁を打ち切られ、ついには孤立無縁、自暴自棄になった放蕩者である。酒に溺れ、情欲に乱れ、そんな体たらくで、奈落へ墜落してゆく途上にある、私の旧知の友である。つまり短縮すると、こうなる。

   そして言葉尻は、彼は、廃疾を、どうしようもない欠乏をかかえ、これまで懸命に生きてきた男である。とこうだ。

   私は幼き日の彼の素行を知らない。親友として長い月日をともにして来た森田にすれば、その詳細を克明に語ることができるだろう。彼らは幼馴染で、どのような局面に於いても二人は常に一緒だったわけだから。  

   多感で、繊細さを全うしようとする少年の頃の、根も葉も無く奥底から沸き立って来るような憎しみや、不安や、怒りなどを共有しなかった。残酷になって笑いたくなる一種の獣じみた高揚も。わけの判らないまま増長する時の過ぎ去る虚しさも、共有しなかった。私たちはそれぞれに、ただそれを感じた。慰めはなかった。

   私が漸と中岡と交友を持ったのは、高校一年の、倦怠の夏の終わりかかる初秋の時分であった。私と同じ高校の、クラスは違うが、緒川と云う名の同年の男を介して、初めて私らは知り合いになった。森田、中岡、緒川は同中の馴染みだった。

   第一の印象に、私は彼をとても同年の人間だとは思えなかった。なぜならば、私らが集まり、臆面も無く自由気ままに悪ふざけしていた公園に突如現れた彼は、まわりの皆のように学生服などは着ておらず、だらだらのでかいTシャツにちょうど膝くらいまでを隠す腰履きの短パン。首からはだらしないチープなシルバーのネックレスを垂らし、金色の短髪で、顎まわりに無精髭を生やし、筋肉質で、出で立ちはまるでチンピラそのもの。どう見てもドヤ街を彷徨く三十くらいの救いようのない成人男性だったからである。

   朽ちた匂いを放つブランコにお互いが腰掛けて初めて言葉を交わしたとき、私は思わず彼に下手くそな敬語を用いたのを覚えている。つまり私は、彼にあまり好印象を抱かなかったのである。それどころか、得も云われぬ恐怖さえ覚えたのだ。彼は高校へは進学せず、と云うのも、彼は受験テスト中に全科目で爆睡したらしい。彼は更にアルバイトもしていなかった。そして日がな一日をわずかな煙草銭をポケットに入れてのらりくらり過ごしていたようだ。

   あとそれから、彼の特徴がもう一つある。彼には、正常な右腕が無かった。赤ん坊のような小さき三本の指が、か細い右肘の辺りに付いていて、そこから先に、あるべきものが無かったのだ。

   彼は生まれつき、不自由の無きように形成されるはずの四肢の一つを持ち合わせていなかったのである。当時の最善の手法を取った外科手術によって、彼の右腕は見た目には少々異質なものになった。そして、彼には心臓の疾患も重なっていた。彼の半裸を、私は何度も見た機会があるが、胸にはちょうど上半身の中心を半分に裂くようにして痛々しい手術痕の裂傷が太くはっきりと刻まれていたのだ。

   私はブランコでのファーストインプレッションのその後を改め、彼と親しくなった。

   彼は怒りの化身であった。幼少期から、障害者としての自己厭悪の累々を味わった。障害者に向けられる情け容赦の無い侮蔑、差別。度々繰り返された痛みの伴う手術。どうしようもない天への怒りがあった。人間への怒りだ。人間の無知や人間の無関心への怒りだ。

   彼が打ち明けてくれたところによると、幼少期の虐めは、相当にドラマチックで酷いものだったようだ。不確かな存在意義があった。嫌になるほど自分自身を自覚させられる、他者の存在。紛れもない侮蔑、差別。覆されない自分自身への現実的な、侮蔑、差別。

   周囲の人間と自分自身を見比べたとき、明らかに自分だけが他の者と異なっている。何の前触れも無く、つぎつぎとまた新たな不幸が自分の背後を追随しようとする。無邪気な笑顔に満ちながら、差別、侮蔑を周囲から浴びせられ、ひとたまりもなく、幼き心が簡単に決壊してしまう。彼はそんなような幼少期を我慢と忍耐で以って生き抜いたわけである。

   いやいや、違う。その心は、その時分に既に砕けていたかもしれない。忍耐など、その言葉だけがさも勇敢で、その実、皆が勇猛に耐え抜いてゆけるわけではないではないか。人は、若くして死を選ぶ。中岡の心が感じた不快極まりない壮絶な自己厭悪など、私には百分の一も理解できないだろう。

   しかし彼は、それでもそのような境遇の中を今日まで生き抜いた。

   彼は強くなる為、小学生の頃から柔道をはじめた。そして中学に上がる頃には校内に敵無し、他校からも恐れられる強き男になった。同級生のライバルたちでさえ、彼に一目を置いていた。

   立派に長じた彼にはもう喧嘩っ早いところがあった。中学校同士のいざこざや衝突はその頃茶飯事であったから、それぞれの中学には所謂番長的な存在があった。要するに、彼はそのヤンキーの頂点に上り詰めたのである。

   彼は当然のように喧嘩が強かった。私が彼と出会うのはもう少し先のことになるのだが、彼は片腕に障害をかかえながら、それでも中学生同士の、意味の判らぬ些細なことで大掛かりに発展した抗争にも臆さず立ち向かい、度々勝利をおさめた。

   森田から聞いた話に、こんなのがある。

   中学二年か三年だったかは記憶がもう亡失したが、〇〇中学の中岡、そして他校の柔道部主将で番長格のAがタイマンをすると云うような泥臭いことがいつかあったそうだ。そのときのこと。

   決闘の場所は浜辺であった。昼下がりの鋭く眩しい晴天の下で、微妙な距離を保って二人は暫く睨み合っていた。熱されたコンクリートの防波堤を割った階段の上で、二つの中学のそれぞれの野次馬が入り乱れ、わやわやとこれを物見見物していた。当の二人は二人とも、拳にはタオルを巻き、沸き立つ怒りと恐怖の震えをどうにか体内に抑えていたが、何の前触れも無く、その緊張の糸は音を殺して双方の頭上に切られる。

   さて二人は走り出し、ぶつかって揉み合い、いい加減な殴り合いになった。二人とも柔道部員の強者である。屈強な肉の張り巡らされたお互いの身体を目掛けて、ジャブ、フック、アッパー、ストレート的な何かがいくつも繰り出された。ざらざらした砂粒が宙に舞い、熱い汗の飛沫が迸った。

   天の時、地の利、人の和。孟子が云うには、天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず。まあ、でもとにかく、本来なら人の和があればそれですべて事足りること。

   そんな要らぬことを私が余所見して云うている間に、中岡が一方的にやられ出した。防御の構えで丸くなり、急所を守ってはいるが、一方的に殴られまくっている。これではAに分がある。いや、ただでさえハンディキャップがあるのに。中岡はもはや満身創痍だ。Aは闇雲に上からのパンチを放ち、集中砲火を浴びせている。

   誰もが中岡の敗北を確信した。

   しかし、浮世の合戦とは、ときに民衆を裏切る結末になる。

   中岡は丸くなった姿勢から形勢逆転を目論んでいた。そして要約したこんな気持ちがあった。

   「痛い。辛い。痛い。辛い。悲しみ。苦しみ。なんで俺が、なんで俺ばかりがこんな目に合わなきゃならない。なんでこんなことになっている。これは俺が望んだ闘いではない。なのに知らぬ間に、いつもこんなことになってしまう。俺だって怖い。痛いのは辛い。あゝ惨めに敗けるのは嫌だ。こんな感じで、惨めに敗けたくないから、努力して俺は強くなった。俺を馬鹿にした奴を見返す為に。俺を虐めた奴へ復讐する為に。なのになんだこれは。なんだこれは。なんだこれは。なんだこれは。なんだこれは」

   そうして中岡の精神的な憤悶は左拳に密集された。天に伸びる木の、分かれた枝の一方を斬り落とし、もう一方へ余計に養分を与えるようにして育てる。これまでの悲しい思い出が、辛い想いが、障害に依って他人の二倍に膨れ上がった左腕の筋肉から拳へ伝わり、その先端を尖らせた。

   中岡の渾身の左アッパーが炸裂した。

   そのアッパーがAの顎にクリティカルヒット。Aは吹っ飛び、そのままざらついた砂の上にぶっ倒れた。

   この闘い、この一発で中岡が勝利したのだった。

   その後、Aと和解。二人の間には、人の和がもたらされたそうだ。

   私はこの話を聞き、彼の勇気に偉く感心した。

   高校生活の彼との思い出の一つに、こんなのがある。私、森田、中岡の三人でそれぞれの原付バイクに乗り、名も知らない山の中を意味や動機を持たずに走り回っていたときのこと。

   私と中岡は途中お互いのバイクをチェンジして、私が中岡の三輪バイクに乗り、彼がスーパーカブ、森田はそのまま自分の改造スクーターに跨って山道を登ったり降りたり、好きに走行していた。

   帰りがけ、森田が先頭、私が真ん中、中岡が最後になって細い川沿いの舗装のされていない道を下っていたのだが、突然私の背後から、「あかん!あかん!」と中岡が叫んだから、私は吃驚して速度を落としてミラーを覗いたのだ。するとミラーの奥で小さな中岡がカーブを曲がり切れず、そのまま谷底に落ちてゆく光景がスローモーション再生で描写されたのだ。

   私は口の中で「あっ!」と云った。

   その道は、谷から五メートル以上高いところをその細い川に沿って続いていたから、バイクで走っていても谷底が見えないくらいだった。その谷を目掛けて、中岡は私のスーパーカブに乗ったまま落ちていったのだ。中岡が。私のスーパーカブが。私も森田も、それをミラー越しに見せつけられ、そして、数秒間、停止して身動きが取れずになってから、私も森田も慌ててバイクを降りて、中岡が落下した地点まで坂を走った。

   中岡が死んだ、そう思った。二人して恐る恐る谷底を覗いた。すると、道から二メートルほど下に川から突き出たでかい巌があって、その上で中岡がバイクに下敷きになって、蹲って呻いていたのだ。

   それからどうやって中岡と私のスーパーカブを引き上げたのかは定かに覚えてはいない。山道をなんとかかんとかして降り、集落で救急車を呼び寄せ、中岡は病院に搬送された。

   結局のところ、中岡はほぼ無傷だった。私のスーパーカブは傷だらけになってしまったが、中岡も誠実になって謝るし、文句の一つも云えなかった。

   あの谷に、あの川の流れの中に、偶々、ちょうど人一人が乗っかるほどの巌があったのは、もう奇跡としか云いようがない。そして彼はなぜだか無傷だったのだ。このエピソードは、今でも我らの懐旧的になるときの一つの話の種である。

   森田と中岡と私は、青春の三年間をともに過ごした。つまりそれは、私の青春を、私は彼らに捧げた、とも云える。

   中岡が行方不明になり、拘留されているのを新聞で知っても、愛人を捨て、養育費を払わずに逃亡しても、アルコールに依存し、その短い寿命を更に縮めようとも、あの数々の思い出は色褪せることがない。

   腐っても中岡は中岡だ。

   中岡は障害を持ち、今も尚必死に生きている。社会の隅に生きている。そして孤独の痛みに身震いし、悩み、悲しみ、この隙間ない世界のどこかに何か別の兆しを捜している。

   ハンディキャップとは何だろうか。それは、ハンディキャップそのものでしかない。いつもそう思う。障害はやはり障害である。

   考えることは自分自身のことだ。

   諸君もそのはずだ。

      

   

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