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蜘蛛の部屋

   このような、疾病の引退兵の如くの隠居生活をはじめてから、もう四週間以上になる。

   じっと椅子に座り、部屋の隅でただぽつねんとしていても不快な汗が額に浮き出してくる。煤だらけの網戸がカーテンを微かに吸い込んでいるが、吐かれた微風はこの貧相な身体までは届いて来れそうにない。鳴くのは雀か尾長か、或いは何の鳥か判らないが、蝉の大群や上空を飛ぶ飛行機のエンジン音がそれを掻き消してしまってからは、そのぴちぴちした囀りに耳を傾けることを止してしまった。

   避けることのできない倦怠。それを毒として持つ小さな虫たちが、身体全体のあらゆる神経を始終駄目にしてから食い尽くそうとしているから、布団の上とテーブルを行ったり来たりして、横になってまんじりともせずに眼を閉じてまたしっかり開いてみたり、起き直って本を一、二ページ繰ってみたり、鏡台の前に立って拍子抜けの背伸びをしてみたりしてこれと云った上手な思考が回らずに気分が落ち着かなかった。

   寂寥がある。焦燥がある。高遠の理想がある。自分のことを考える時間と余地が増えたのがいけない。人間は考えるよりも先ず行動をしているべきだろう。作務に追われ、次から次へとやってくる諸問題を一つずつやりこなしているうちは、人生と云う漠然と大きいだけの抽象的な絵画との対峙には直面しない。ぼやけた輪郭の向こうに、実際の奥行きは無く、ただ一切は、ぼやけて仕上がってしまっているのだ。そういった、雑に描かれた陰鬱な気配が暗く淀み、観覧者の神経まで尖らせる。つまり君たちだ。

   身体が云うことを訊いてくれそうになかった。忸怩たる思いの私は、日に日に衰えてゆく魂の破片の粉々になる様を感じていた。少しずつではあるが、得体の知れないものの手に依って魂の砂山が削られ、崩されてゆく。けれども最後の一粒になろうと、やはりそれは砂山と云えるのではないだろうか。魂とはそう云うものではないだろうか。

   とにかくこのような鬱陶しい気分から逃れたくなり、外に出てみようと何時間も心に藻搔きながら、漸くそれを実行できたのは陽も傾きつつある午後四時過ぎであった。

   がたがたと扉を閉め、ぎぎと鍵を掛け、容赦無い陽射しを頭皮から背中にかけて浴びせられると、三階から一階までの階段を降りてゆく自分の姿を先走って想像し、その時点でもうすべてが不快で、嫌になった。

   そうして更に重々しくなりながら、裏手の駐輪場から抜けて愈々表通りに降り立つと、街路樹のふさふさした梧桐から煩く蝉が騒いでいる。私はそのノイズの中でまたすべてが面倒になり、引き返したくなった。

   喘息の息苦しさや、慢性化した鼻炎と下痢続きの脱水症状があったが、梅雨明けの久しくお目にかかる晴天の中のお天道様をこの身に今日こそは体感してみたかった。永遠と埃臭い部屋に閉じ籠っていては、思考がぶつくさと逗留するばかりでいけないから、何処に行こうと云う目的も無いのだけれども、兎に角、武庫川方面に向かって歩くことに決めた。

   人の往来で窮屈な商店街を突っ切り、閑静な住宅地を横切って大通りに出た。

   車が猛スピードで何台も通り、看板がいくつも掲げられ、建物が何棟も並ぶ国道171号線を東に只管行けば、川沿いの斜面にぶち当たるはず。

   サンダルの、しゃ、しゃ、しゃ、しゃ、と云う音の交互の、左脚と、右脚のほんの少しの微妙な違いが気になって、何が要因だろうか。とその調子を合わせるべく試みながら、そっと歩いてみた。

   しゃ、しゃ、しゃ、しゃ、しゃ、しゃ、しゃ、しゃ、しゃ、しゃ、しゃ、しゃ。

   自分の脳がコントロールしている自分の脚であるにも関わらず、意識してバランスを気をつけていても何故か左右に少し違った音色が生じる。左右に身体的な癖があるから、その動かし方にやはり微妙な違いがあって、頭ではコントロールしきれていないから、こう云う少し調子違いの足音になるのだろうか。或いは靴底の微妙な歪みが原因だろうか。こうした些細なものに気を取られる人間の脳とは、ほんとうに不思議だと思うのだ。そしてこんなことに気を取られて抽象的な思考になっていては、私はどうしようもなかった。要するに、暇であった。

   飛行機が再び頭上の空を裂いて飛んでいる。伊丹空港から飛び立った機体が空中でやや旋回し、それから真っ直ぐに目的地に向かって高度を上げるのだ。

   玉の汗が額から流れ落ちて首筋に溜まってゆく。顔が熱風に煽られて鼻の中がむずむずする。なんて暑く、なんて苦しいのだろう。なんてしんどいのだろう。私は情けなくなりながらただ歩いた。

   アスファルトが熱を反射して、死んだ小動物の残骸をからからにしていた。

   ひしゃげた蛙が吐き捨てたガムのようだった。

   三十分程歩き、漸く川沿いの斜面に着いた。

   雑草の茂る斜面を登り、道路を横切って河川敷へ降りた。

   水面には数種類の渡鳥がぷかぷかしていて、薄いガラス細工のような水の流れが橋梁の下の陽陰から日向に向かって静かにさらさら流れている。涼しげな鉄柱の錆び付いた茶色が熱を弾いてゆらめいている。河川敷では青々しい深緑の欅や楠、桜、松などが人工的に等間隔で植えられ、黄、白、赤、ピンクの名も知らぬ花々が風や光や雑草と一緒になって疎らに咲いていた。私は川辺へ繋がる細い石の階段の木陰に腰を下ろした。

   自販機で購入したペットボトルの水を啜ってから、煙草に火を点けた。

   向こう岸の原っぱで球児が練習に励んでいる。その上の晴天の空が建造物の輪郭をはっきりと別けている。

   川床のたくさんの石ころには水苔が付着していていつかの川積を暗に示している。

   ふと目に留まったのは、直ぐ側に群生した茅とコンクリートの間につくられた、蜘蛛と蜘蛛の巣であった。

   小さな蜘蛛が巣の真ん中で死んだように微動だにせず、じっとしていた。

   何事も無く、特別な変化が起きなければ、ずっとそうやって一箇所に留まっているつもりなのだろうか。こんなにも広大な空やだだっ広い地上と較べて、あまりにもこんなのはちっぽけなテリトリーである。こんなにも辺鄙な、ちっぽけな蜘蛛の巣に、のこのこと引っかかって来る馬鹿な奴など果たしているのだろうか、甚だ疑問である。それに、此奴は何故こんなにもじっとしていられるのだろうか。他の虫たちは、自らの生命の維持や、集団で暮らす他の連中の為に、せっせと動いて餌を集めているではないか。蝶だって蜜を求めて名だたる花々を駆け巡っている。バッタにしろそこら中を跳ねている。皆、せっせと働き、飯を食べ、子を育てて立派に生きようとしている。一瞬にしてその生命を焼き尽くそうとする勇気のある輩も中にはある。けれども此奴にはそのような、必死に生きようとする気概が見受けられない。一か八かのギャンブルにその身を委ねているかのようだ。只管に幸運の訪れを待っているかのようだ。風に煽られて巣がぱたぱたと波打つのを、無力に帆にしがみついてる嵐の下の船乗りのようにも視えてくるのだ。こやつは必死でそこにいるわけだ。

   私は足下に咲いた豚菜を摘んだ。そしてその黄色い花弁を丁寧に抜き取り、それを蜘蛛の巣に配らった。

   可愛らしく装飾された女郎の巣は、無色透明な幽居からカジュアルな印象の淫靡なステージになった。

   私の心は凪いでいた。

   向こう岸の建物の輪郭から、また飛行機が旋回しつつ現れて、遅れた音が遠くズレて聴こえてきた。

   つんざかれた私は立ち上がり、今来た道を引き返した。


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