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博士論文と単著の話

自分の博士論文、単著を素材に、学会の大会で話題提供をすることになった。

今振り返ってみても、悩みながら書いて、世に出したものであったなぁと思う。

学会での報告の準備をしながら、博士論文、そして単著というのは、いわば自分自身の存在をかけてやっていたものであったことを改めて感じたので、今日はそんな話を、いくつか断片的に少し書いてみようと思う。

(というわけで、この投稿は、博士論文や単著にかかわるノウハウのような類のものではなく、自分にとって博士論文や単著とはどのようなものであったのか、というエッセイ、あるいは備忘録のようなものです。)

博士論文の審査会を振り返って

博士論文には審査会なるものがある。自分の博士論文について、主査や副査の先生などから様々な質問があり、それに答えていくという、口頭試問だ。

自分は、その場で考えてすぐに回答するのは基本的に苦手で、学会発表や各種登壇・講演などでも、質疑応答に課題を感じることが多い。

それにもかかわらず、考えてみれば博士論文の審査会では、割と自分にしては健闘していたようにも思う(お世辞ももちろんあるだろうけれど、審査会を傍聴していた後輩からも、バシバシ返していましたよね、と言ってもらえることもある)。ついこの前もそんな話になった。

なぜなのか。それはおそらく、自分が誰よりも博士論文に書いた内容については考えてきた、調べ尽くしてきた、という自負があったからなのだろうと思う。もちろん博士論文自体は、課題も限界も多々あったのだけれど、そうした課題や限界も含めて向き合い、理解してきた―そういう感覚でもあった。

そして、この後にも書くように、博士論文というのは、いわばそれまで研究者の卵(?)として研究してきたものの集大成でもあり、ゆえに博士論文の審査会(口頭試問)というのは、自分自身の存在意義をかけたディフェンスでもあった。だからこそ、自ずと力が入ったのかもしれない。

単著を出すまでの日々

博士論文を提出し修了した後、ほどなくして、研究会での報告や指導教員の先生のアドバイスもあって、単著としての出版を目指して頑張ることになった。

書籍化を目指すことになってからは、(割と誇張ではなく文字通り)毎日のように博士論文のWordファイルを開いては、「ここをこう直そう、加えよう」を繰り返していた。

もし出版されるとなれば、より多くの人の目に触れることになる。そんなことにも後押しされ、博士論文の時点ではどうも納得がいっていなかったところ、腑に落ちていなかったところを、ときには誰も気づかないであろうような細かい表現の違いも含め、手直ししていた。また、博士論文には盛り込み切れなかったことや、博士論文を書いてから出会った新たな知見や事例も盛り込んだ。

その後、ありがたいことに、科研費の出版助成(研究成果公開促進費)が決まり、出版の目処が立った。

それはちょうど新型コロナウイルス感染症が猛威を振るい始めた2020年であった。経験したことのない事態のなかで、単著が世に出るまでは、なんとしてでも自分は倒れられないという感覚だった。
 
なぜそのような感覚にまでなっていたのか。それは、博士論文や単著は、ある種の自分の存在証明であったから、なのだと思う。まがりなりにも、それまでの人生を賭けてやってきたものであり、たとえ広い学術の世界の中でどれだけ小さなことであっても、まだ自分しか知らない(かもしれない)世界、見えているものを、世に残すことで、それを読んだ誰かがバトンを繋いでくれる可能性があるし、自分が生きてきた意義がある―ずいぶんと大きな話かもしれないが、でも敢えて言語化するならば、大真面目にそういう感覚だったのだと思う。

単著を出した後、今では関心も広がり、取り組む研究の幅も広がりつつある(このこと自体は大事だと思っている)。けれどもこの頃は、博士研究というのが常に自分の研究の中心にあり、むしろそれがほとんどすべてに近かった。自分が取り組んでいる研究が、自分の存在意義に直結していたあのときの感覚は、今でも大切な原点であるし、折に触れて思い起こしながら、これからの研究も進めていきたい。


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