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人に助けてもらい優しくしてもらった過去が、自分を優しくしてくれる Lunch#70 永田翔太朗さん

私自身が、京都大学を目指したきっかけは、小学校の時に家庭教師をしてもらった人が、その大学の出身だからでした。小さい頃の憧れが、自分を引っ張り上げてくれた、強い原動力になってくれた。

そんな経験は多かれ少なかれ、誰しもあるのかもしれません。

そんな、幼少期の思いに、突き動かされながら、運命に翻弄されもしたのが、永田さんです。


そんな永田さんのポイントはこちら。
・慶応義塾に一目惚れ
・オーストラリアでの地獄の3ヶ月
・人にやさしく


まずは、慶應義塾に一目惚れ、です。


永田さんは、幼稚園の頃に憧れの存在がいました。今はもうおぼろげにしか覚えてないそうですが、その人への憧れから、小学校受験をすることになります。

受験自体は、ご両親の意向だったそうですが、どこに行きたいかは、永田さん自身が、その憧れから学芸大附属を選んだそうです。

ただ、この小学校受験の倍率がとても厳しいもので、ある意味でかなりの難関です。ある意味で、というのは、合格するには、2度くじで当選しなければいけないからです。

学力でも生活態度でもなく、運。純粋な運。まず、受験資格を得るためにくじをひき、そして課題をクリアした後に、またくじを引く。

学力や生活態度だけではなく、運を試されるくじが2度もあったこの小学校受験でしたが、永田さんは強運を発揮して、無事に合格。

晴れて小学生になった永田さんは、この学校が楽しくて仕方なかったとか。「お受験」でいくような小学校だから、お勉強ばかりかと思いきや、かなりユニークなカリキュラムがあったそうです。

園芸用の菊を育てて、その菊の美しさを競うコンペティションを校内でやっていたり、騎馬戦では上半身裸の裸足でかなり激しい熱戦が毎年繰り広げられたり、千葉富浦での遠泳大会があったり(しかも赤ふんどしで!)、学校の畑で野菜を作ってそれをみんなで収穫して味噌汁にして食べたり。

そんな充実した小学校生活をしていた永田さん、5年生の時でした。何気なく慶應義塾の中等部の文化祭に、お父さんと遊びに行った時に、衝撃を受けたそうです。何が、というより、その学校全体の雰囲気に。

ここ。かっこいい。。。。

心を射抜かれた永田さんは、その場でお父さんに宣言します。
「ぼく、ここ行く。」と。

その宣言通りそこから、中学受験の猛勉強を開始、もともとよかった成績を、さらに上げていきます。合格間違いなしのところまで成績を上げて永田さんでしたが、結果は、不合格。

慶応の中等部には合格できず、悔しくて涙を流す永田さん。そして、その時に、大学では慶応に行く、絶対、と決めたのです。

慶応に行けないと決まってしまった永田さんが選んだのは、別の私立中学でした。そこは、留学や国際理解教育などに力を入れている学校でした。そこで、永田さんは、慶応に行けない分、ここで留学しよう、と心に決めたのでした。


次は、オーストラリアでの地獄の3ヶ月、です。


中学に入学した永田さんの目標は留学でした。ただ、留学プログラムは高校からと決まっていました。そこで、中学の3年間はテニスをやろうと決めたのでした。(永田さんのお家はみなさんテニスをされているテニス一家だそうです。)

ほとんど初心者だった永田さんですが、のめり込んだらとことんの性格をここでも発揮して、中学3年生の時には団体戦のレギュラーを勝ち取り、都大会準優勝・関東大会準優勝、さらに、全国ではベスト8の成績を残したのでした。

その後、高校に進学した時に、永田さんは留学へと狙いを定めます。

そのために、テニスは中学校までで引退しました。高校にももちろんテニス部があるのですが、中高ともにかなりの強豪校で、部活+テニススクールに通わないとついていけないレベルだそうです。

目的を留学に絞った永田さんは、そこから英語の勉強などの留学準備をして、留学への試験に臨みます。1度目の試験には落ちてしまいますが、2度目の試験で無事に合格。オーストラリアへの10ヶ月間の留学が決定しました。

高校1年生の2月から、高校2年生の12月までの10ヶ月の期間の留学。この期間で高校2年生の必要単位が全て取れるという交換プログラムの制度でした。

永田さんの留学先は、オーストラリアのシドニーから車でおよそ1時間半ほど離れたセントラルコーストの学校でした。

ここから、永田さんが人生で一番辛い3ヶ月と言う時間が始まってしまいます。

永田さんの留学先は、セントラルコーストの男子校で、お金持ちが集まる、いわゆる「いい学校」でした。それはそこに通っているお金持ちの人たちにとってのいい学校で、とても保守的なところでした。そのため、移民や留学生、特に有色人種にとっては、「いい学校」ではありませんでした。

そんなところだと知りもしない永田さんの登校初日でした。学校から家までは多くの生徒が、スクールバスで登下校しており、永田さんも同じく、スクールバスに乗車、初めての学校にワクワクと緊張しながら向かっていた時でした。

ドン。

と背中に衝撃を感じ、気づいたら体ごとバスの外でした。

永田さんが降ろされたことに気づかないまま、バスは学校へ向けて走り去ってしまいます。オーストラリアの来たこともない場所で突然降ろされた永田さん。周りは見たこともない景色。学校がどこにあるかもさっぱりわかりません。

わけのわからないまま、とにかく学校に行かないと。そう考えて、永田さんは近くにいたおじさんに拙い英語で話しかけます。そのままそのおじさんに学校に連れて行ってもらったのでした。

そこからは露骨ないじめの日々でした。ついたあだ名は、「イエローモンキー」バナナを投げられたり、石を投げられたり。何よりも、英語がまだまだできなかった永田さんは、相手が何を行っているのかもよくわからず、さらに、何か言い返そうと思っても、英語がスラスラと出てこず。

こんな辛い状況の中でも、永田さんは帰ろうとは思わなかったし、家族に心配をかけたくなくて、一言も相談しなかったそうです。

そんな辛くて悔しくて悲しい毎日を耐え忍んできた3ヶ月。その3ヶ月が過ぎた時に、永田さんはあることに気づきます。

相手の言っていることがわかる、聞こえる、と言う感覚。

自分のその耳の変化に気づいた時に、これならはっきりと文句が言える、正面から立ち向かえる、そう考えた永田さんは、このいじめを終わらせるためにリーダー格に立ち向かうことに決めたのです。

土日の間に、何を言うのかを色々と考えて、頭の中で何度もシミュレーションして、あけて月曜日の朝。いつも通りのバスに乗って、いつも通りの教室について、リーダー格が来るのを待ちます。

そして、彼が入ってきた矢先、ツカツカと正面い歩いて行って、俺だって英語しゃべれるんだぞ、と堂々と言い放ちます。(足はガクガクのまま)その堂々とした姿の永田さんを見て、周りの見る目がガラッと変わり、いじめは無くなったのです。

ですが、このリーダー格との直後に、突然の腹痛におそわれた永田さん、冷や汗が止まらなくなり、病院に運ばれてしまいます。そこで盲腸と診断され、その翌日には緊急手術。なんとか退院ができたと思ったら、今度は、ホスト先のお母さんが脳梗塞で倒れてしまいます。

その影響でホスト先を変える必要が出てきてしまい、その時に仲のよかったフィリピン人のハーフの男の子の家に、移ることとなったのでした。

いじめのリーダー格との対決、盲腸の手術、引っ越し。と言う怒涛の1週間を過ごして、やっとの事で落ち着いた留学生活を過ごせるようになったのでした。


最後は、人にやさしく、です。


英語漬けの10ヶ月間を送り、帰ってきてすぐには、朝ごはんを食べながら、「のり」と言う日本語すら出てこないほどの英語脳になっていた永田さんでしたが、帰ってきてふと思い出します。

慶応に行きたかったんだと言うことに。

高校2年生の単位がもらえるカリキュラムの留学に行っていはいましたが、もちろん、日本の受験に向けての勉強とは違うところもあり、このまま一般受験だと厳しいと考えた永田さん、別の方法を見つけます。

それがAO入試でした。ただ、これは入学後の意欲や志望動機が大きく問われる入試制度。留学から帰ってきたときの永田さんに、入学後にやりたいことは、ほとんど無いに等しい状態でした。

どうしたらいいのかわからず、藁をもつかむ思いで、永田さんは、AO入試専門とする塾に通い始めます。その塾で出会った先生に、ビジネスコンテストへの参加を勧められます。

のめり込んだらとことんの永田さんは、ビジネスコンテストに参加し、訪日外国人と在日外国人とをつなぐサービスを考え、それによって優秀賞を獲得します。

しますが、なんとなくこれじゃないという感覚を覚えます。

そこで、なんなんだろうと悩んで立ち止まるのではなく、動き回るのが永田さんのすごいところ。ここから今度は、熊本の地震の被害のあったところにボランティアに行きます。

ただ、これもまたなんか違う。

今度は、永田さんのお姉さんのツテをもらって、ハンセン病患者の人と話をする機会をもらいます。そこで、ハンセン病とは何かというものからどう行った境遇だったのか、を色々と教えてもらいます。

その人の迫害を受けている過去を聞いているうちに、これかもしれない、と感じ始めます。

ちょっとでも芽生えたら、今度はそれを大きくするだけです。重度の知的障害者に会いに行き、車椅子や盲目の体験をするイベントを主催し、気づけば、団体を立ち上げていました。協賛してくれたり、サポートをしてくれそうな、企業や弁護士などに会いに行く日々が続きます。

そんな毎日を繰り返しているうちに、永田さんの中で人生でやりたいことの輪郭がはっきりとしてきます。

それは、「ハンディキャップなどで、挑戦したいのにできない人への支援」(「支援」という言葉が適切かどうかはわかりませんが、とも永田さんは言っていました。)

そのために、慶應大学に入学後も、高校生向けのビジコンのサポートをしたり、継続的に団体の運営をしたり、さらには、日本や海外でのドキュメンタリーの制作をしたり、と幅広い活動をしています。

この精力的な活動の背景には、オーストラリアでのいじめの3ヶ月、さらには、小学校や中学校であったいじめの期間。

そんな時に、常に手を差し伸べてくれる人がいた。そんな人たちのおかげで今こうしていられる。その優しさをいろんな人に手渡していきたい。自分が持っているものと同じくらい、人から受け取ったものを大切にしている。

そして、その思いを、優しさを胸に、人にやさしく生きていく永田さんでした。


2019.10.21 永田翔太朗さん
吉祥寺にて

ここまで読んでいただきありがとうございます。 この世界のどこかにこうして私の文書を読んでくれている人がいる。それだけで、とても幸せです。 サポートしていただいたお金は、また別の形で素敵な人へのサポートとなるような、そんな素敵なつながりを産んで行きたいです。