lunch60_中島裕人さん

怖くても、自分の直感を信じて、前に進む Lunch#60 中島裕人さん

実は、今年の2月に東京に戻ってきたばかりの中島さん。東京でお会いするまでに、いろんな紆余曲折がありました。

その紆余曲折を優しく丁寧に語ってくれました。
そんな中島さんのポイントはこちら。

・出たくない試合
・大学に行く意味がわからない
・自分に嘘をつけない

まずは、出たくない試合、です。


中島さんは、幼稚園で始めて以来、高校卒業までずっとサッカー少年でした。

近所のグラウンドのある公園でサッカーチームがあって、そこの練習に参加するのが、サッカーを始めたきっかけでした。

中島さんが生まれたのが91年、Jリーグが開幕したのが93年。まさに、サッカー人気が全国に広がっていく頃でした。

中学時代は、学校にサッカー部がなくて、地元のクラブチームに所属していました。中学時代には、大会でベスト4の成績を残すほどのチームになっていきました。

その後、サッカーの強豪校の私立を受験して、進学。
もちろん、サッカー部に入部します。

もともと、中島さんは、完璧主義でストイックな性格の持ち主。部活の中でも、そのストイックさを発揮していきます。

強豪校のために、もちろん、誰もが勝ちたいと思っているチームではあったのですが、人一倍、いやそれ以上に、勝たなきゃ意味がない、と強く思っていました。

がむしゃらに練習をして、時には衝突を繰り返しながら、部活に打ち込んでいったのです。3年生の時には、チームの運営や練習メニューのマネジメントを選手をしながら行うように。

そして、そんな状態で迎えた都大会。
結果的に、中島さんの最後の試合となる一戦で、中島さんは、ベンチスタートでした。

終始劣勢のこの試合、負けたまま、試合終了の時間が少しずつ近づいてきます。
そんな中、もちろんウォーミングアップをして、試合に出る準備は完璧にできていました。

フィジカルの準備はできていたのです。
ですが、中島さんは、こんなことを思っていました。

出たくない。。。

高校最後の試合。負けられない試合。
そんなことを含んだところで、中島さんは、試合に出るのが怖いと思っていました。

そして、このまま試合が終わって欲しいとも。
中島さんの願い通り、中島さんは試合に出ることもなく、3年間の部活の引退が決定しました。

全くの不完全燃焼な引退でした。


次は、大学に行く意味がわからない、です。


幼稚園からずっとサッカー少年だったと同時に、実は中島さんは、デザインやアートの分野にも興味があったのでした。

というのも、お父さんが建築系のお仕事を、お母さんがデザイン系のお仕事をされているのです。

小さい時から、デザインや建築に触れる機会が多かった中島さん、大学進学ではものつくりと、ずっとやってきたスポーツを掛け合わせた大学に行くことに決めます。

その大学では、プロダクトについて、幅広く学ぶことができるのでした。でしたが、中島さんは、そもそものものを作るということに疑問を感じ始めます。

その疑問の一つのきっかけが、産廃サミットでした。
ナカダイという会社が主催されている産業廃棄物をマテリアルとして、アート作品をつくるという展覧会です。

これに参加した中島さんが気づいたのは、ゴミの多さでした。それも、まだまだ使えるものがゴミとして捨てられている事実でした。

これほどのものが捨てられている世の中で、また新しくプロダクトを作る必要性があるのだろうか。そう考えると、自分が学んでいるプロダクトの制作というものが、とても無意味に感じてしまったのでした。

それ以来、大学に行く気も失われ、退学をしてしまおうかと考えたものの、周りの説得もあり1年の休学をして、色々と自分自身のことを見つめてみることにしたのでした。

休学したところで、何をしようとも思いつかなかった中島さんは、そもそもこの世界はなんなんだろう、社会た日本とはどういう国なんだろうという根本的な疑問を解決したくなり、京都を訪れます。

京都を訪ねて、あるお寺に飛び入りで宿泊をお願いをしたのでした。

突然、学生がやってきて住職も困ってしまいましたが、3日間も連続で頼みに来る学生を無下に断るわけにもいかず。

結果的に、中島さんはそちらのお寺で2週間の修行をさせてもらったのでした。
そこでは、座禅や掃除などはもちろん、住職に自分の疑問を色々とぶつけながら、話を聞いてもらったのだそうです。

そのほかにも、休学中には、バックパッカーとして世界を見て回ったりもしたそうです。その中で、旧ユーゴスラビア諸国や、マケドニア、コソボなど、日本での生活では触れないような世界を見て回ったそうです。

本当に色々な経験をして、大学に戻ってきたときに、中島さんが思ったのは、知らないことがたくさんある、ということでした。

だから、大学生活は、その知らないことをとにかく勉強する時間に充てたらいいと考えたのでした。

それと同時に、旅行やお寺での修行を通して感じたのが、一人では何もできないという当たり前の事実でした。

結局、人がいないと成り立たないもので、自分一人では何もできないということです。


最後は、自分に嘘をつけない、です。


色々な経験をして、勉強もして、卒業をした中島さんは、フリーのデザイナーとして活動することを決めました。

周りからは、猛反対を受けたのですが、その猛反対を押し切って、フリーランスとして活動を始めます。

そこから2年間、中島さんはフリーとして活動するのですが、この2年間が苦しかったそうです。

というのも、シンプルに仕事がなかったから。

この辛さ・苦しさというものは、お金が無いということもあったかもしれませんが、それ以上に、自分の価値が見えないことだったそうです。

つまり、仕事がない、お金をもらえない、それは、言葉を変えるなら、自分は誰にも見向きもされない存在だと言われているような感覚。

そして、もっと言えば、この社会に必要とされていない、と思い悩んでしまっていたそうです。

とは言っても、その2年間もただただじっとしていたわけではなく、無料で仕事を受けたり、いろんな形で人と出会い、縁を育てていたのでした。

その後高知のデザイナーの方とご縁があり、デザイン事務所に入社が決まりそのまま高知へ移住します。

基本的に、思い立ったら即行動で、体当たりの中島さんに、躊躇などありませんでした。デザイナーとして働けることにワクワクしながらも、3ヶ月弱で退職してしまいます。

そしてその後、数ヶ月高知で活動もしながら、この2月に東京に戻ってきたのでした。

学校を突然やめようとしたり、猛反対を押し切って、フリーでの活動を始めたり、高知への移住を突然決めたり、中島さんは基本的に自分の直感を信じて生きている人です。

もちろん、合理的ではない選択をしていないこともあるかもしれないし、中島さん自身も怖い時も多々あるんだけれども、それ以上に、合理的な判断ばかりをしてしまい、死んだように生きる方が、よっぽど怖いそうです。

自分に嘘をついて、それなりの選択肢をするのではなく、自分の直感を信じて、怖がりながらも、一歩踏み出してみる。

そんな人生の選び方をしている中島さんの次の一歩もまた楽しみです。


2019.6.24 中島裕人さん
上野にて


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