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たまたまという偶然を力に変えて、動き続ける経営者 Lunch#75 天野さん

デジタルモンキーという会社のCEOをされている天野さん。スマートフォンのゲームの事業のM&Aを中心として、現在ではメディアのM&Aなども手がけるようになっているようです。

とにかく事業内容が複雑なのですが、簡単に言ってしまえば、他社の開発したゲーム事業を買い取り、それを自社で運営・開発しているそうです。

そんな天野さんのポイントはこちら。

・あまりにも過酷な浪人時代
・能力も適性も完全にミスマッチ
・たまたまとしか言えない


まずは、あまりにも過酷な浪人時代、です。


ゲーム関連の会社をされている天野さんですから、小さい頃からゲームをよくやっていたのかというと、そうでもなかったそうです。

家庭用ゲーム機には一応慣れ親しんではいたものの、それよりも熱中していたのは野球でした。実際、天野さんは今でも体を鍛えるのが好きで、自転車で移動されたり、ジムに通ったりされているそうです。

家でゲームをするのも好きだけれど、それ以上に、小中高とずっと野球をやってきた天野さんでした。高校卒業後は、スポーツ系の専門学校に進学する予定をしていました。

将来のことを考えるとやはり野球関連のことが一番に出てきたので、アメリカに移り住んで、ベースボールのコーチやフィジカルのトレーナーなどというキャリアプランをおぼろげに考えていたのです。

そんな天野さんの自宅に一本の電話がかかってきました。予備校からの営業電話でした。

その電話で、大学に行った方がいいよ、浪人した方がいいよ、と言われて、その言葉にのせられるまま、予備校への入学を決めてしまった天野さん。ただ、家がそこまで裕福ではなかった(6人兄弟)ので、新聞奨学生として予備校に通うことに決めたのでした。

新聞奨学生とは、新聞配達をすることで、学費の補助を受けながら学校に通うことのできる制度のことです。天野さんはこの制度を利用して、住み込みで働きながら予備校に通うことにしたのでした。

初めての一人暮らしにワクワクしていた天野さんの部屋は、五畳一間の風呂なしアパートの一室でした。

そこからの毎日は、朝2時に起床から4時間ほど新聞配達をして、それから、夕方まで予備校で勉強と運動(体育学部系の予備校だったので)、午後3時から3時間ほど夕刊の配達をしてから、夜はまたトレーニングと勉強。

そんな厳しい生活を乗り越えて、晴れて大学生になったのでした。

この厳しい浪人時代の話をしている天野さんの顔はなぜか笑っていて、楽しかったとは言わなかったですが、その厳しいチャレンジを楽しいと思っているような様子でした。

次は、能力も適性も完全にミスマッチ、です。


大学では、ラクロス部で、選手兼メンタルトレーニングコーチとして活動しながら、関東大会ベスト4に輝いたり、新聞の勧誘や金の買取のバイトをしたり、スポーツやレジャーに関する勉強をしたりしていました。

入学前には、スポーツ系のトレーナーなどを目指していましたが、よくよく調べてみると、あまりにもなりにくい、ハードルが厳しすぎる。そう考えたのでした。

それと同時に、新聞配達をしていた中で出会った経営者が、天野さんの心のどこかに残ってもいました。自分が頑張れば頑張るほど稼ぐことができる。その限界がない感じに密かに憧れを感じていました。

そんなことをいろいろ考えている中で、ベンチャー企業という土俵に興味を持ち始めます。自分が成長できる厳しい環境がある。さらにスピード感がかなり早い。

この辺りのことを考えて、自分を成長させてくれる会社を探していたのでした。
そんなかで就活生がプレゼンして、企業がそれを聞きに来るという、企業説明会とは逆のイベントがあり、そこで天野さんは就職先の会社と出会います。

その出会いの結果、晴れて天野さんは内定1号として、堂々と入社します。
ちなみに、この会社がゲームの会社だったのです。

内定をもらった時は、営業としての採用だったのですが、入社してすぐの配属先の発表の時には、なぜか企画として配属されたのでした。

もともと、ゲームの知識が豊富なわけでもなく、パソコンもほとんど使えず、企画なんてもちろんやったことのない天野さんでしたが、この配属を天野さんはありがたいと考えたのです。

そのうち企画はできるようにならないといけないから、さっさと始めた方がいいに決まっている。ここでしっかり経験して3年後には独立しよう。そう自信満々で企画部へと配属されたのでした。

でしたが、そんなに甘くはなく、できないことに直面してばかりの毎日でした。ひどい時には、デスクのところで上司から徹底的に詰められ、終わったかと思えば会議室に移動してまた詰められる。

合計3時間ほどの説教をくらったこともあるそうです。その頃には、天野さん自身も、全く仕事に向いていない、と感じていたそうで、そのあまりにもできの悪さに、他の部署でも有名になるほどで、いろんな人から心配をされたそうです。

それでも、諦めそうになりながらも、なんとか食らいついてだんだんと慣れてきた頃には、朝活を仲間と開催するようになったりと、今でいう意識高い系の活動を続けてきたそうです。


最後は、たまたまとしか言えない、です。


あまりにも厳しい環境だったために、3年での独立は無理かもと思いつつも、その後の努力の甲斐もあって3年経った頃には独立することになるのです。

と言っても、その時に次の仕事や事業が決まっているわけでもなく、とにかく思い切って辞めてみたのでした。

そして、辞めてみたら不思議なことに、あの3時間も説教をしてくれた上司から仕事のオファーをもらったり、別の部署で、これまた怒られた部長からの紹介をしてもらったり、と。

たまたまとしか言えない縁で、仕事をもらったのでした。気がつけばフリーになって1年後には、ゲームコンサルやゲームの運営、ディレクションなどを幅広く手がけながら、月150万ほどの売り上げを出すようになっていたのでした。

そして、その時に天野さんが考えたのが、暇、でした。

実際には、仕事はたくさんあって、暇でもなんでもなかったはずなのですが、天野さんの脳はそれを暇と判断したのです。というのも、一人でやっていてもこれ以上大きくならないという感覚だったのだそうです。

フリーというポジションでできることはやりきったということでしょうか、この時に天野さんは法人化して、自身の仕事の規模を拡大させようと考えたのでした。

そこからは、自身がかつてディレクションしていたゲームの移管業務を行ったり、朝活で出会った人と五年ぶりに再開し、仕事を受けたり、できの悪い新人として心配してくれていた先輩たちから仕事を受けたり、と。

この先の目標は、売り上げ・利益を上げることだそうです。
自身の年収、会社の売り上げを上げることで、見えてくるものが変わってくるはず、そこで見える景色を見に行きたいと教えてくれました。


天野さんのこれまでには、とてもたくさんの偶然が訪れていました。特に会社を辞める前後からの偶然は、計算しても絶対にできないような偶然がたくさんありました。

頑張って続けた朝活が自身の仕事と繋がったり、自分のゲームを移管作業をしたり、あまりもの偶然だけれども、それに対して天野さんは、動いているから、ととてもシンプルな理由を教えてくれました。

嗅覚を使ってとにかく動く、それを続けてきた結果が今の天野さんで、きっとこれからも鋭敏な嗅覚で、天野さんは動いていくんだと思います。

自分自身ももっともっと嗅覚を磨き、動き続けないと、と思わされたいい時間でした。


2019.10.11 天野さん
大崎にて


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