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落日

昨日のnoteで、「太陽礼拝」という記事を書いた。

雨の日がたくさん続いたから、お日さまが射した日が嬉しくて

古代の人が太陽を信仰したり、太陽を神様に見立てた気持ちがよく分かる、というようなことも含めて書いた記事だった。

その中で

「あなたの心を晴らすような、太陽がどこかにあるといいなとも思う。」

という言葉を書いた。

そして、その言葉を書いたと同時に、

この世を去ったことを昨日に報道された、有名な俳優さんのことを思い出した。

(その方のお名前を、ここでは出さないことにしようと思う。

私もその方のことをとても好もしく拝見していて、私の母もとても好きだった俳優さんで、これからの活躍を、とても楽しみにしていた方の、おひとりで。

きっと、お名前を見ると、ぐっと心が痛んだり、お辛い気持ちが込み上げる方もいらっしゃると思う。

その方が、自分という存在の心のなかで、他者に侵されることなくゆっくりと悲しみや痛みや辛さを感じて、受け入れて、ご自身のペースで緩やかに溶かし込むべきものだと思うので、ここでは、言葉にすることをせずにいたいと思う。

わたしも、大好きな人や大事に思う人や尊敬している人は、外からの情報から心を痛めつけるようなかたちではなくて、ゆっくりと自分の人生の一部にしていきたいと願っているから。)

たいせつな人や、大事な存在は、まるで空気や大地や太陽のようなものみたいに感じるときがあると思う。

いてくれて当たり前のように感じていて、でも確かに感謝の気持ちがあって、大事で、でも毎日のようにその存在を感じているから、その毎日のなかの、慌ただしかったり、忙しかったり、余裕がなくて一生懸命な時は、おざなりにしてしまって、

でもそれすら含めて、きっと受け入れてくれるような存在。

もしくは、自分にとってかけがえのない歓びをくれる存在で、同じくらい、その人が元気が無かったり、あるいは袖にされてしまったら一日中ブルーになって溜息ばかりついてしまうような、憧れみたいな存在。

日常に溶け込んだ、愛の象徴のような存在。

わたしはそんな存在を指して、「あなたの心を晴らすような、太陽」という表現をした。

けれど、そんな存在が、生きている存在だったら。

人や、動物や虫や…生きている存在だったなら。

きっと私たちは、いつか別れを経験することになる。

死別という形で、お別れすることになる。

一足早く、この世界をさよならした人はどこに行くのだろう、

というのは人類が生まれてからずっと、哲学されてきたことの一つだと思う。

死ぬことは決して忌むべき事柄ではないけれど、それにしたって、寂しいものは寂しく、哀しいものは哀しいと思う。

寂しいとか、哀しいとか、辛いなんて言葉に収まりきらないほど、自分の人生の中で愛に溢れた相手なら、尚更。

相手の生命、存在そのものから、あふれて、零れ落ちて、自分に届いてくるような、そのすべてが愛おしくてたまらなかったなら、尚更。

もし今、あなたにとっての太陽を、光を。

あなたが唐突に、あるいは自然な流れであったとしても、失われてしまって、悲しみの最中にいるのだとしたら。

その悲しみを、無理に止めようとする必要はないということを、伝えたいとわたしは思っている。

そして同じくらい、自分の心を痛めるような情報の受け取り方だけは、どうかしないでほしい、ということも、祈り、願っている。

それは、テレビやニュースなどもおなじ。

悲しみを受け入れるために、無理に自分の心を痛ませる必要はないと、私は思う。

嫌だな、悲しいな。向き合うのは、今は辛い。
そう感じるのなら、テレビを消したり、人のことばならば、大好きな人だったから、悲しくてならないから、その話題についてわたしは今はお話したくない、できないと。

そんなふうに、自分のこころを大切にする選択を、してあげてほしい。

それはあなたを愛する人々や、ご家族や、ご友人や、あなたを大切に想っていらっしゃる存在のためになる。

あなたの大切な人たちにとっての、太陽を守る選択になるから。

だから、堂々と、あなたのこころを守る選択をしてあげてほしい。

生きていくために、

そしてまた、同じように太陽を翳らせている人に、

優しく在れる選択を、社会全体ができるように、

あなたという光を、まず一番にやさしくまもってあげてほしい。

わたしたちはいつか死別する。

そしてその時、どうしても、たらればが浮かんできてしまうこともあると思う。

どうしたらよかったんだろう、と。

どうしてあげたら、どんな風にすれば、どのような形になっただろう、何かが変わったのではないか、と。

それはきっと、あなたの、そしてわたしたちの優しさなのだろうと思う。

もし自己満足だったとしても、偽善だったとしても、あのとき、ああしてあげていれば、何かが違ったんじゃないのかと、想いを馳せてしまう。

愛していたから。愛しているから。

大切だから、大切であるほどに、考えてしまう。

もっと幸福な形が、道が、選択が、あったのではないかと。

もっと何か出来たのではないかと。

もちろん、そう考えてしまうことは、悪いことではないと思う。

けれど、今一度の言葉になるけれど、

どうか、それで心を痛めるような形だけは、続けないでほしい、と、

私は切に、あなたに願い、祈っています。

* * *

どれだけの愛の深さを以てしても、届かない、深海の果てというものは、在るのだと思う。

そしてその深海の果てには、きっと、その人にとっての、太陽(あかり)を灯した深海魚のような存在しか、たどり着けないのだと思う。

そして、そんな存在に出逢えるというのは、とても稀有で、難しく、天文学的な巡り合いなのだろうと思う。

どれだけ空の上に太陽が光っても、月が優しく微笑んでも、満天の星空が瞬いて見せても、届かない深海の底で、ぐったりと眠る悲しみや孤独も、時にはあって、

きっとその底に辿り着くには、同じだけの期待や、同じだけの絶望や、同じだけの繊細さや、同じだけの苦しみや、同じだけの喝采が必要だったのかもしれない。

そういう人にだけ、開かれる深海の扉が、あるんじゃないかと、私は思っている。

誤解してほしくないのだけれど、これは決して、大切な存在の深海の照らすことを、「同じ境遇じゃなければ照らせないのだから諦めろ」といっているわけではないということ。

そうではなくて、相手の水底に招かれるということは、とてもデリケートな領域を許されるということなのだと、伝えたかったのです。

そしてまた、招かれたとき、全ての人が、その場所を明るくくまなく照らし出してほしい、というわけでもないのだと、私は思う。

相手によっては、その暗闇に時折そっと引きこもって、その昏さを健全に楽しむことで、水面にあがる元気を貰えるかもしれないのだから。

また同時に、どうかその深海に不意に迷い込んだとしても、その昏さに戸惑ってもいいから、笑ったり、否定したり、無理に水面に引っ張り出そうとはしないであげてほしい。

その深海があるから、その存在は安心してビーチにあがって、砂浜ではしゃいだり、水面の傍で飛んだり跳ねたりできるのかもしれないのだから。

深海はだれの心にもあって、自覚して深海に潜る人もいれば、無自覚に中層を彷徨う人もいる。

深海から水面に上がるために、足掻く人もいるだろう。

けれど、どんな人にも深海はある。そこに潜ることは、きっと決して問題ではない。

大事なのは、水面に上がった時に見える、太陽の眩しさや月の優しさや、星々のまなざしなのだと思う。

その光をあまりにも強く、痛く、苦しく感じ始めた時、人は自然と深海からあがっていく気力が削がれていくのかもしれない、と、ふと思った。

深海は孤独で、昏くて、悲しいけれど、

きっとギラギラと照り付ける突き刺すような光よりも

ずっと優しく、とろりと自分を包んでくれるように感じるから。

どちらがよくて、どちらが悪いという話ではなく

そういう選び方を、人がしてしまうことはあるのだと、私は思う。

そしてそれを、誰でもないその人自身が選んだことを、私は否定したくない、と思う。

哀しいけれど。

とても、とても、悲しくてたまらないけれど。

どうか、そこにいるあなたが、安心して泣いたり、笑ったり、子どものように無邪気でいられたらいいなと、切に思う。

そうでなくては、あまりに悲しくて、報われなくて、胸が痛いから。

 * * *

太陽の去った世界に生きるわたしたちにとって

きっと時間は残酷なのかもしれません。

相変わらず世界は、物理的に太陽で明るく照らされていて

食べるものやお仕事や、関わり合う人々がいて

それが尚更かなしくなるときも、あるのかもしれない。

けれど、失望したり、絶望したりすることがあっても

どうかあなたという太陽を痛めつけたり、

闇雲に曇らせたりして、まだ去らせないでほしい。

あなたの世界にとっての光は、時に明滅して、変動してしまうこともあって、それを大きく動かしたり、コントロールすることは、たしかに完全には難しい。

けれど、たったひとつの太陽だけは、あなたの意志で、明確にあなたにも守れるから。

あなたという命に灯されている光だけは、あなたが守ろうという意志を強く持てば、大きなアクシデントがない限り、守ることが出来るから。

そして、その太陽を守ることは

誰かの世界の太陽を、守っていることにも他ならないことを

どうか覚えておいてほしい。

「ちょうど太陽が去っただけだろう」

と、椎名林檎さんが歌う『落日』という歌を思い出す。

大切な人とのお別れは、あまりにも寂しい。

そして、かなしい。

かなしい、という言葉は、「愛しい」とも書くのだそうで

昔は何故だろうと思ったけれど、

年を重ねて大切な人への愛を感じるほどに、本当に、よくわかる。

「独りきり置いて行かれたって

さよならを言うのは可笑しいさ

丁度太陽が去っただけだろう

僕は偶然君に出逢って

ごく当たり前に慈しんで 夕日を迎えた

さあ もう笑うよ」

かなしいほど愛しい太陽に出逢えたこと

その太陽の落日は

あんまりにも名残惜しくて切ないけれど

きっとその太陽は輝いて、その夕日を迎えたのだと思う

私はそう信じながら、ゆっくりその名残空を、大切に見つめようと思う。

それしか出来ないけれど。

それがきっと、私の持っている光を見てくれている人にとって、

一番優しい光になると思うから。

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