見出し画像

第二十四話

(私のせいだ)

 客間に寝かせられている毅尚の頭に濡れた手拭いをあてがいながら、きよは毅尚に対する申し訳なさで胸が押し潰されそうになる。

 父は毅尚を殴ったあと、二度と娘の前に現れるなと鬼の形相で怒鳴ったが、なんの反応も示さず動かなくなった毅尚に、家族全員が焦りだした。母が女中に医者を呼びに行かせ、家に入れたくないと言う父を説得し、皆で毅尚を運びいれたのだ。医者には安静にして様子を見るように言われたが、いまだ毅尚が目を開ける気配はない。

「お嬢様、後は私がお世話しますので」
「大丈夫、私が見てるから二人にしておいて」
「ですが旦那様が」
「いいからお願い!出てって!」

 部屋に入ってきたみさ江を、きよは強い口調で断り追い払う。きっと父に、きよをこの部屋から出すよう命令されてきたのだろうが、今回ばかりは、黙って従うわけにはいかない。

(毅尚さんをこんな目にあわせるなんて酷い。それに私は、見ず知らずの男になんて嫁ぎたくない)

 きよの父勘吉は、数ある小売酒屋の一つでしかなかったこの店を、持ち前の商才で大きくしたやり手だ。だが、お得意先や金持ちの客以外どこか見下したところがあり、家族は勿論、伯父の正吉や奉公人達にも常に威張りちらしている。武家の仕来りや教えを真似るのも大好きで、きよも姉も、小さな頃から女大学を暗記させられ、良妻賢母になるべくあらゆる習い事をさせられていた。

 それは感謝すべきことなのかもしれないが、同じ教育を受けていても、姉ときよでは立場が全く違う。幼い頃から、両親は当然のように姉の方を大事にし、きよは家族に対して疎外感を感じていた。そんな中、いよいよ姉が婿をむかえることになり、ついに自分はこの家を追い出されるのだと、半ば自暴自棄になっていた時、きよはあの店で、毅尚に出逢ったのだ。

 そう、あれは一目惚れだった。毅尚にではなく、毅尚の描いた絵に。馬とも牛ともつかない、黄金の色あいをした不思議な動物が天に向かって走っていくその絵は、とても自由で躍動感に溢れていて、きよの心を一瞬にしてとらえたのだ。

『ねえ、これってなんていう動物なの?』

 絵について尋ねた途端、気弱そうだった毅尚の瞳は生き生きと輝き、つられてきよも晴れやかな気持ちになった。初めて話した時から、まるで幼馴染とでもいるかのように気安く心地よく、親しくなってからは、親にどんなに咎められようと、毅尚に会いに行くことを止められなかった。

(私はこの人の、どこに惹かれたのだろう?)

 開け放たれた庭から入る涼やかな風は、毅尚にとどいていないのか、汗ばむ額や首筋を拭ってやりながら、きよは自らに問いかける。

 絵の話をしてる時の弾んだ表情。絵師になるために、コツコツ絵を描き続けてきたのだろう綺麗な手。見かけによらず、家を絶縁されてまで夢を追う芯の強さと、それ以上に見え隠れする気の弱さ。

 自分の毅尚への想いがなんなのか、きよ自身はっきりとわかってはいなかったが、もう二度と毅尚に会えなくなるかもしれないと思うと、心の臓を針で突かれるような苦しく切ない痛みが胸に広がり、人目も憚らず泣きだしたい衝動に駆られる。

「ん…」

 と、今まで眠ったように動かなかった毅尚が、掠れた声をあげ小さく身動きをする。

「毅尚さん!毅尚さん!」

 必死に声をかけるきよに応えるように、毅尚はゆっくりと目を開き、ぼやけた眼差しできよを見つめた。

「きよちゃん?」
「毅尚さん!良かった!」
「あれ?ここどこ?俺、どうしたんだっけ?」
「ここは私の家。私の父が毅尚さんのこと殴って、毅尚さん気を失ってしまったの。ごめんなさい、私が、お見合いするのが嫌で、毅尚さんと一緒になる約束してるって嘘をついたりしたから」
「そうだ!お見合い!するって本当なの?」

 毅尚は途端に目を見開き、きよに問いかける。

「うん、それで私、あんな嘘を…」
「いや、それはいいんだ。」
「でもそのせいで毅尚さん殴られて…」
「いや、いいいんだ本当に、きよちゃんの言葉、すごく嬉しかったし…」

 俯きながらそう言う毅尚の顔は、明らかに赤くなっている。きよも、いつもと違う雰囲気につい照れくさくなり話題を変えた。

「そういえば毅尚さん、なんで私の家の前に来てたの?」
「きよちゃんにちゃんと謝ろうと思って、友達と思えないって、ひどいこと言ってごめん」
「そうだ!忘れてた!私毅尚さんのこと怒ってたんだ!友達じゃないって言われてすごく傷ついたんだからね!」
「ごめん」
「でもいいよもう、家にまで謝りにきてくれたんだもん」

 二人で顔を見合わせて笑いあい、気恥ずかしくも温かい空気に包まれたその時

「目が覚めたのか?」

 突然部屋に入ってき父の声が、2人の間を切り裂いた。

「お父さん!」

 勘吉はきよを無視して、布団に座っている毅尚の胸ぐらを掴む。

「目が覚めたならとっとと帰ってくれ!娘は絶対におまえなんかにやらん!」
「ちょっとお父さん!毅尚さんを殴っておいて何言ってるの!まずは謝るのが礼儀でしょ!」
「うるさい!最初に娘を誑かしたのはこいつのほうだろ!」
「誑かされてなんていないわ!私が毅尚さんに会いたくて行ってたの!」
「こんな男のどこがいいっていうんだ!うだつのあがらない絵師なんかと一緒になったって路頭に迷うのが関の山だぞ!」
「そんなこと関係ない!私は…」

 きよが言いかけた言葉を詰まらせたのは、勘吉に胸ぐらを掴まれ苦しそうに顔を歪める毅尚の様子に気づいたからだ。別に自分は、毅尚に本当に一緒になろうと言われたわけではない。あれはきよの口から咄嗟にでた嘘であり、その嘘のせいで、毅尚は勘吉に殴られ、今もまた、乱暴な扱いを受け暴言を浴びせられている。

「私はなんだ?」
「…とにかく毅尚さんを離してよ!まだ安静にしてないといけないんだから!」

 勘吉は毅尚の体を畳に放り出しきよの両肩を掴むと、今度は宥めるような口調できよに言い聞かせてきた。

「いいかきよ、おまえは俺が選んだ男と夫婦になるのが一番幸せなんだ。女にとって家柄も甲斐性もない男と一緒になるほどの不幸はない」
「そんなことない!」
「いいや!貧乏な男と結婚して苦労する女を俺は何人も見てきたんだ!こんな奴のことはとっとと忘れろ!」
「待ってください!」
 
 突然毅尚が大声を張り上げ、二人は意図せず口論を止め毅尚を見やる。毅尚は畳に這いつくばり、土下座のような格好できよと勘吉を見上げて言った。

「お父さんの言うとおり、確かに僕はしがない絵師です。でも僕は、きよさんと夫婦になりたいんです!今は確かに絵師として半人前かもしれませんが、いつか一人前になってきよさんを必ず幸せにします!だからお願いです!きよさんと…」
「何を図々しいことを言ってるんだ!ふざけるな!」

 最後まで言い終わらぬうちに遮られたが、きよは驚き毅尚を見つめる。

「どうかお願いします!僕はきよさんと、一生一緒に生きていきたいんです!お願いします!」

 気が弱いとばかり思っていた毅尚が、勘吉に罵られながらも一歩も引かず、畳に頭が擦れんばかりに土下座して、きよと一緒になりたいと懇願している。初めてはっきりと告げられた、毅尚のきよに対する思いに胸が震え、自然と込み上げてくる涙が頬に溢れおちる。

「だったら100両用意してみろ!」

 だが、毅尚の決死の告白を嘲笑うように、勘吉は、できるはずのない条件を毅尚に提示した。

「明日までに100両用意できるなら、きよをおまえやってもいい」
「100両…」

 あまりの金額に愕然とする毅尚に変わって、きよが声を荒げる。

「何言ってるの!そんなお金用意できるわけないでしょ!」
「だったら諦めろ!いいか、おまえをどこの嫁にやっても恥ずかしくないよう大事に育ててきたのは、こんなうだつの上がらない貧乏絵師の嫁にやるためじゃない!どうしてもきよと結婚したいなら明日までに100両用意しろ!できないのならこの話は終わりだ!」

 勘吉はそれだけ言うと、いつの間に来ていた伯父の正吉や奉公人達を部屋に呼び入れる。

「おまえら、こいつを連れていけ!」
「乱暴にしないで!毅尚さんは怪我してるのよ!」

 無理やり立ち上がらせられ連れて行かれる毅尚にきよが駆け寄ろうとすると、正吉がきよの身体を背後から羽交い締めにする。

「離してよ!」
「諦めなさい、兄さんの言うことは絶対だ」
「毅尚さん!」

 きよの叫びに、両腕を掴まれ引きずられるように歩いていた毅尚が振り返る。こんな緊迫した状況であるにもかかわらず、毅尚のきよを見る目はどこまでも優しい。

「必ず迎えに来るから」

 いくら世間知らずのきよでも、明日までに100両用意することなどできるはずがないとわかっていた。それでも、その言葉に縋らずにはいられず、きよは毅尚を見つめ深く頷く。
 毅尚の背中が遠のき姿が見えなくなると同時に、きよは膝から崩れ落ち、人目も幅からず慟哭した。一緒になりたいと、互いに思いあえた男と引き裂かれる絶望に打ちひしがれながら、ただ子どものように声を上げ泣き続けた。


「これで約束通り、きよさんを僕にください」

 しかし次の日、毅尚は100両を持ってきよの前に現れる。
 好いた男が、自分をむかえにきてくれた喜びに陶然となったきよは、気付くことができなかった。このお金こそ、毅尚の運命を大きく狂わせていく根源となることに…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?