見出し画像

第二十二話

 勝鹿派の門下に入り気付けば早10年。相変わらず売れない日々を過ごしていた毅尚は、師匠のつてで、絵師の仕事の側、月に数日、錦絵や浮世絵木版画などが売られる、地本問屋の店番として働くようになった。 
 元来絵好きの毅尚にとって、それは願ってもない仕事だったが、店番をしていると、嫌でも自分の絵が売れない現実を目の当たりにする。

 その日も、店番をしながら帳簿の確認をしているところへ、二人の年の近い少女と母親、そしてその家族の女中らしき年配の女性が店に入ってきた。芝居見物帰りなのか、美しい絵柄の仕立てのいい着物を着ている様子を見ると、きっと裕福な家の女性達なのだろう。

「見て、光楽の絵沢山あるわよ」
「本当だわ、この猿之助様を描いた絵素敵ねえ」
「これ、光楽の有名な花魁美人競じゃないですか?やっぱり色使いが素晴らしいですね」
「でもここって光楽の絵しかないのかしら?みんな同じような絵じゃない?」

 いつものように、光楽目当ての客達の会話をぼんやりと聞いていた毅尚だったが、一人違ったことを言う声に気づき興味を持って見やる。声の主は、牡丹柄で彩られた紺青色の着物がよく似合う、16歳くらいの少女だった。 
 
 少女の言うとおり、この店に絵を置く他の絵師の中には、間違ってでも買ってもらおうと、光楽の画風を真似る絵師たちが増えていた。似たような絵で安ければ、そちらを買う人間もいるのだから仕方のないこと。 
 だが毅尚は、時折くる依頼で光楽風にという注文があれば従ったが、勝鹿派の名もない絵師の絵も置いてくれるこの店では、どんなに自分の絵が売れなくても、自分流を崩さず通してきた。だからこそ、その少女の言葉がとても気になったのだ。

「またきよはそんなこと言って、本当に天邪鬼なんだから」
「べつに天邪鬼じゃないし、思ったことを言っただけよ」

 きよと呼ばれたその少女は、光楽の絵に集まる家族から一人離れ、店の中を所在なさげに歩き始める。単に絵に興味がないだけかと、少しがっかりしたその時、きよが一つの場所に目を奪われたように立ち止まった。

「お母様!私この絵が欲しい!」

 そう言ってきよが指さしたのは、毅尚の絵だ。

「どれどれ?てなーにこれ?動物?何を描いてるんだかわからないんだけど?光楽の絵じゃなくていいの?」
「いいの!だって私、この絵が欲しいんだもん!いいでしょ?」

 きよは毅尚の絵を鷲掴むように手に取ると、そのまま意気揚々と毅尚の方へ歩いてくる。

「これください!」
「あ…ありがとうございます!」

 初めて自分の絵を買いたがる客に出くわした毅尚は、嬉しさのあまり声が上ずる。その喜びが大きく顔に出ていたのだろう。

「この絵、もしかしてお兄さんが描いたの?」

 伺うように聞いてくるきよに、毅尚は自分のあからさまな態度を反省しつつ黙って頷く。改めて間近で見たきよは、切れ上がった大きな瞳がとても印象的で、美人というのではないが、とても魅力的な顔をしていた。

「そうなんだ、ねえ、これってなんていう動物なの?」
「これは麒麟という空想上の動物です。僕も見たことはないんだけど、漢字から想像して描いたんですよ」
「どんな漢字なの?」

 興味津々で質問してくるきよに教えてやるため、毅尚が、何か漢字を書ける紙がないか探していると、後ろにいたきよの姉らしき女性が二人の会話を遮る。

「きよ、いい加減にしなさいよ、見ず知らずの男の人とそんなに近づいて話すなんて、はしたないと思わないの?」
「は?なにはしたないって?うちは武家のお姫様でもなんでもないんだからいいでしょ。姉様もうすぐ旗本の次男と祝言あげるからって、ちょっと勘違い始まってるんじゃないの」
「なんですって!もう一回言ってごらん、引っ叩いてやるから!」

 突然目の前で喧嘩が始まり毅尚がうろたえていると、母親と女中らしき女が二人を止めに入った。

「お嬢様達、おやめください」
「二人とも!こんなところで喧嘩するなんて、女の子がみっともないと思わないの!」

 母親の剣幕に、二人の少女はお互い掴みかけていた手を解く。

「ごめんなさい、でもきよが…」
「最初に文句言ってきたのはお姉様じゃない」
「うるさい!二人とも黙りなさい!喧嘩両成敗です。絵は買ってやりません!帰るわよ!」
「そんな…」

 その言葉に一番がっかりしたのは、紛れもなく毅尚だろう。思わず落胆の声を出す毅尚を、申し訳なさげに振りかえりながらも、きよは姉とともに、母親に手を引っ張られるようにして店を出ていってしまった。


 この日の出来事があってから、毅尚はなんとなくきよのことを忘れられずにいた。そんなある日、相変わらず売れることのない自分の絵を眺め、ため息をつきながら店じまいをしようとしているところへ、突然駆け込んでくるように、一人の客が店の中に入ってくる。

「申し訳ありません、もう閉め…」

 途中まで出ていた言葉を、毅尚は思わず飲み込む。

「お兄さん、あの絵頂戴!」

 息せき切るようにしてそう言って入ってきたのは、毅尚が忘れられずにいた少女、きよだった。

「あ…ありがとうございます!」

 毅尚は大声でお礼を言って自分の絵を渡し、きよからもらったお金を帳簿につける。そして、もう一度きよに礼を言うため顔を上げると、いつの間にかきよの顔が目の前にあり、毅尚はびっくりして後退りした。

「な…なんですか?」
「この間お兄さんこの動物の漢字教えてくれようとしたでしょう?せっかくだから今教えてくれる?」
「あ、麒麟」
「そう、きりん」

 大真面目な顔で言われ、毅尚は、いつかまたきよが来たらと密かに期待し用意していた半紙に書こうとする。だが、突然きよに腕を掴まれ、毅尚は手を止めた。二人妹がいるためある程度女性に免疫はあるものの、うら若い女の子がなんのためらいもなく自分に触れてきたことに、毅尚は少し動揺したが、きよは全く意に介さぬ様子で毅尚の絵を指差し言った。

「そこじゃなくて、このきりんの絵の下に書いてよ」
「ああ、なるほど!」

 きよの提案に納得し、毅尚は絵の下に小さく麒麟と書いてやる。

「へえ、こういう字なんだ、なんだか複雑でわけわかんないけど綺麗!」
「でしょ?俺も初めて見た時綺麗な字だなと思ったんだ」

 それは不思議な感覚だった。元々人見知りの気があり、初対面の人間と話すのは苦手なはずが、このどこか一風変わった少女と話していると、まるで古くからの友とでもいるように饒舌になってしまう。 
 次々と質問してくるきよと夢中で話しこんでいるうちに、気づけば外は暗くなり始めていた。毅尚は、近いからいいというきよを説き伏せ、手早く店じまいを済ませると、きよを家まで送りとどけることにする。


「で、なんでそんなに離れて歩いてるの?」

 店を出てから、きよの後ろを、少し距離をおいて歩く毅尚を見やり、きよが不思議そうに尋ねてくる。

「いや、女の子が男と並んで歩くのはあまりよくないから」
「なにそれ?武士の仕来り?私酒屋の娘だからそんなの関係ないし」
「酒屋?」
「そう、お酒、毅尚さんはお酒好き?」

 急に名前を呼ばれびっくりする毅尚に、きよは麒麟の絵が描いてある紙を見せる。そこには確かに、作者である毅尚の名前が書いてあった。

「たけなおって読み方であってた?」
「あってるよ」
「良かった、私漢字苦手だから、今度から読みやすいようにひらがなで書いてよ」
「いや、それはちょっと…」

 よくよく考えてみれば、毅尚は随分きよに厚かましいにことを言われているのだが、なぜか全く嫌な気がしない。それはこのきよという少女の人徳なのか何なのか、毅尚にはわからなかった。

「毅尚さんて兄弟いるの?」
「ああ、妹が二人いるよ」
「そうなんだ、うちはこの間毅尚さんの前で喧嘩しちゃったけど、兄弟はあの姉一人。
お母様はね、本当は二人目は男の子が欲しかったんだって。だから今でも時々貴方が男だったらよかったのにって言ってきたりするのよ。でもそんなの私のせいじゃないと思わない?しかも先に生まれたからってなんでも姉が優先だし、ほんとやんなっちゃう。毅尚さんは妹と仲良し?喧嘩したりする?」
「うーん、家にいた時は結構仲よかったけど、もう何年も会ってないからな、今は…どうなんだろう」
「なんで会ってないの?」

 屈託無く聞いてくるきよに、毅尚は苦笑いしながら答える。

「実は家から絶縁されてて、それからは全然帰ってないんだ」
「絶縁?なんで?」
「俺は長男だったから、本当は家を継がなきゃいけなかったんだけど、どうしても絵師になりたくて、諦められなくて…それでまあ、絶縁されちゃって…」
「へえ、なんかかっこいいね、そういうの」
「へ?」

 きよの意外な言葉に、毅尚は驚いて聞き返す。

「どこがかっこいいの?」
「だって、家を捨ててまで叶えたい夢があるってことでしょ?それってすごいことじゃない!」

 曇りない羨望の眼差しを向けられ、毅尚は少しだけ胸が痛んだ。自分は今、あの頃ほど純粋な気持ちで夢を追いかけられてはいない。そんな毅尚の心を知ってか知らずか、きよはいたずらに笑いながら言葉を続ける。

「私の夢、なんだかわかる?」
「え?いやなんだろう?幸せなお嫁さんとか?」
「違う違う!私ね、もし神様が一つだけ願いを叶えてくれるとしたら、男にしてもらいたいの。いやらしい話、うちは結構儲かってるから、将来安泰なうちの家業を継いで、しっかりもので可愛い奥さんをもらうの。
それで、店のことは頭のいい伯父の正吉さんに任せて、私は吉原に通って、愛人沢山作っちゃったりして、毎日面白楽しく生きるのよ」
「なんだそれ?男として駄目だろう」

 毅尚がそう言うと、きよは冗談よと言って笑う。

「毅尚さんなんでもまじめに考えすぎ、男になんてなれるわけないじゃない」
「まあ確かに」

 互いのことを色々話しているうちに、いつのまにか立派な暖簾がある酒屋の前に来ていた。

「ここがうち、送ってくれてありがとう」
「ああ…全然大丈夫」

 もう家に着いてしまったのかとがっかりしながら、名残惜しく手を振ってきよの後ろ姿を見送っていると、家に入る寸前、きよは振り返り言った。

「ねえ、これからも時々お店に行って、毅尚さんの絵買いに行っていい?」
「もちろん!」

 自分でも恥ずかしくなるくらいの早さで即答する毅尚に、きよは嬉しそうに笑って言った。

「良かった、私あの日、あなたに悪いことしたなって後悔してて、この絵のこともずっと忘れられなかったの。親に怒られるからしばらくは我慢してたんだけど、どうしても欲しい気持ちおさえられなくなって、つい家脱走してお店に行っちゃったんだ。だって私、この麒麟の絵大好きなんだもん」

 この時のきよの笑顔と言葉を、毅尚は一生忘れることはないだろう。 
 きよと出会ってから、毅尚の人生は、忘れていた何かを取り戻していくように輝き始めた。うだつの上がらない絵師である毅尚の絵を、大好きだと言ってくれたきよの存在は、いつのまにか、なんの道標もない闇夜に迷いはじめていた毅尚を、突然照らしだしてくれた光だったのだ。

 それからというもの、きよは約束通り、時々店を訪れるようになった。絵を買うこともあれば、とりとめのないことを話すだけ話して帰ることもあったが、その時間は毅尚にとって何よりも楽しく、毅尚はきよが来る日を待ちわびるようになっていた。
 といっても、二人が一線を超えることは全くなく、二人の関係はこのまま何も変わらず、穏やかに続いていくように思えた。だが、若い男女が親しくしている様子を、周りがほうってはおくはずがない。

「おまえ、最近酒屋の娘といい仲らしいじゃねえか」
「いやいや違います。そういうんじゃ…」
「またまたすっとぼけてんじゃねえよ、隠さなくたっていいだろ?」
「いや、本当に、まあ、一緒にいて楽しくはあるんですけど…」

 ある日、絵師仲間にきよとのことを聞かれ、狼狽しながらも悪い気はせず答えていると、仲間の一人が心配そうに忠告してきた。

「でも、あまりのめりこまないほうがいいと思うぜ。あの子田嶋屋の娘さんだろ?どこぞの絵師なんかと噂になってんだって、両親はあまりよく思ってないらしい」

 その言葉に、先ほどまで浮き足立っていた心が、一気に谷底に突き落とされたような気持ちになる。確かに、むこうの両親にしてみたら、娘が、稼ぎの少ない無名の絵師なんかと噂になっていて嬉しいはずがない。それに毅尚自身、きよとの関係やきよに対する感情がなんなのか定められずにいた。


「毅尚さん?」
「…あ、ごめん、何?」
「何って、なんか今日つまらない、毅尚さんずっと上の空だし」

 毅尚が店番の日、いつものように店に来ていたきよが、少し仏頂面を浮かべて毅尚をなじる。そんなきよの子供っぽい様子に、毅尚は微笑を浮かべたが、また少し経つと、絵師仲間に言われた言葉が頭をよぎり、毅尚は自然と表情を曇らせてしまう。

「毅尚さん本当に大丈夫?何かあった?」
「いや!ごめん!大丈夫大丈夫!」
「本当に?遠慮しないでなんでも言ってよ、私達もう友達じゃない。話すことで気がまぎれることもあるし、こう見えて私、ちゃんと口は固いんだから」

 きよの口から友達という言葉がでてきた途端、毅尚は自分が深く傷ついていることに気がつく。自分達の関係は確かに今友達で、それ以外の何者でもない。だけど、これからも友達のままでいいと、自分は本当に思えるのだろうか?きよがいつか他の誰かに嫁いでしまっても、平気でいられるのだろうか。

「毅尚さん?」
「…よくないと思うんだ」
「え?」
「いい年の男女がこんな風に会ってたら、やっぱり世間の目もあるし、きよちゃんの親もあまり良く思ってないみたいだし…」

 親という言葉に、きよが顔を顰める。

「私の親ここに来たの?」
「いや、来てないし会ったこともないよ、ただ…」

 仲間からの忠告や、自覚したばかりのきよに対する想いに心が乱され、毅尚は何をどう言えばいいのかわからなくなる。

「ただ?」
「俺は、きよちゃんのこと友達と思えなくて…」

 伝えたいことが纏まらないまま出してしまった自分の言葉に、毅尚はしまったと口を押さえたが遅かった。傷ついたように歪んだきよの顔は、友達と思えないが、悪い風に伝わってしまったことを物語っている。

「いや、違う!そういう意味じゃないんだ。悪い意味じゃなくて」
「悪い意味じゃない?」
「俺は、きよちゃんのこと…」

 好きなんだと伝えようとした。だがその時、傷つくのが嫌な、狡い自分が毅尚の心に顔を覗かせる。自分を友達としか思っていないきよに今想いを告げたところで、あっけなく振られるだけ。裕福な酒屋の娘であるきよが、名もない絵師の嫁になってくれるはずがないことは紛れもない事実だ。 
 誤解を解きたいが振られて傷つくのは怖い。でも自分の気持ちを伝えずに、友達だと思っていないという言葉を訂正する術も見つからない。

「毅尚さん?」
「…」

 度ツボにはまり黙り込む毅尚の言葉を辛抱強くまっていたきよが口を開く。

「わかったもういい!友達だと思ってたの私だけだったんだね!もう二度とここには来ないから!!」

 いつまでも何も言えないでいる毅尚に、きよはそう言い捨てると、そのまま振り返ることなく、走って店を出て行ってしまった。

「くそ!」

 きよがいなくなってしまった店の中で、毅尚は一人自分の不甲斐なさに拳を叩きつける。叩いた机は思った以上に硬く、その痛みに、毅尚は自然と涙ぐんでいた。  
 きよとこのまま、一生会えなくなってしまうのは嫌だ。だが、店番をやりながら食いつないでいる、無名の絵師でしかない、今誇れるものが何もない自分には、きよに気持ちを伝える勇気など持てない。 

 きよの姉は、旗本の次男を入婿に向かえたのだと聞いていた。もし自分が仲沢家を継いでいたら、自信を持ってきよに告白できたのだろうか?武士のままだったら、きよの両親は、毅尚ときよが結ばれることを望んでくれたのだろうか。絵師になるのは自分の夢だったはずなのに、どこまでも卑屈になっていく心に毅尚は頭を抱える。

(一体どうすればいいんだよ!)

 やるせない気持ちのまま、きよの残像を追うように店の入り口に目をやると、一枚の紙が、無造作に丸まって落ちていることに気がついた。こんな時だというのに、店前に紙くずがあってはよくないと思った毅尚は、番台から立ちあがり拾いにいく。その紙には何かよくわからない黒い線が書いてあり、なんだ?と思って広げた瞬間、毅尚は思わず噴出した。
 
 書いてあったのは毅尚の似顔絵。下には矢印で毅尚さんと書いてあり、その横にはご丁寧に作者きよと署名までしてある。

「へったくそだな~」

 先程まで毅尚を支配していた心の痛みが、きよの絵のおかげでみるみるうちに引いていく。悲しみに歪んでいた自分の顔が、笑顔に変わっていくのがわかる。

 振られて傷ついたっていいじゃないか。
 きよになら、傷つけられたっていい。自分の夢からも、叶わず傷つく痛みからもずっと逃げていた自分に、光を与えてくれたのも、笑顔をくれたのもきよだったのだから

(ちゃんときよちゃんに謝って、正直な気持ちを伝えに行こう)

 毅尚はそう決心すると、臆病な自分を奮い立たせるように、きよの描いた自分の似顔絵を、お守り代わりにそっと懐の中へしまった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?