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第二十八話

「それじゃあ行ってくるけど、くれぐれも無理しないでね」
「…うん」

 いつものように、仕事に向かう毅尚を外まで見送るきよだったが、どうも昨日から心ここに在らずで様子がおかしい。気になって尋ねても首を横に振るだけで何も言おうとはせず、結局原因がわからぬまま出かけることになってしまった。だが、毅尚がきよに背中を向けたその時、突然強く腕を掴まれる。

「毅尚さん、私に何か隠してない?」
 
 振り向く毅尚に放たれたきよの問いかけは、毅尚を狼狽させた。今日は吉原の遊女である花里に絵を教えに行く日なのだが、毅尚はそのことをきよに伝えていなかったのだ。これが女の勘というものかと思った毅尚は必死に言い訳する。

「違うんだよ!別に隠してたわけじゃないんだ!せっかく絵を習いたいって言ってくれているし、別に断る理由もなかったから…」

 花里は紫に続き、玉楼を背負って立つ花魁になる遊女だと聞いている。花魁というのは、自分のような人間が気安く話せる存在ではないと思っていた毅尚は、花里の気取ったところのない真っ直ぐな性格に親しみを持ち、密かにまた会えるのを楽しみにしていた。

 勿論それは人間的な興味であり、決してやましい気持ちなどないものの、相手が吉原の遊女なだけに、今日の仕事内容を告げなかったのは、身重のきよに余計な心配をかけたくないという毅尚なりの配慮だった。しかし、どうやら毅尚の言葉は見当違いだったらしく、きよはきょとんとした顔で毅尚を見上げている。

「一体なんの話?今日誰かに絵を教えるの?」
「いや!俺の話は大したことじゃない、それよりきよちゃんなんのこと言ってるの?」

 墓穴を掘りそうになった毅尚は慌てて首を振り、きよは不審そうにしながらも、深刻な表情で話しだす。

「長屋のみんなが私に言ってきたの、あの光楽が、実は毅尚だったんだって?って」
「はあ?なにそれ、どういうこと?」
「わからない、でも、今江戸中で噂になってるって、遊女と心中した光楽は偽物で、本当の光楽は毅尚だったんだって、光楽はそれを苦にして自殺したって…」
「そんなわけないだろ!!」

 それはあまりにもひどい噂で、毅尚は思わず大声をあげていた。二人が暮らしているのは、今まできよが住んでいた屋敷とは比べものにならないほど狭い長屋だ。毅尚は最初、きよがこんなところに住めるのだろうかと心配したが、毅尚の心配をよそに、きよはすぐ長屋暮らしに慣れ、いつの間にか近所の住人とも仲良くなっていた。

 そこでしょっちゅう、近所の仕立て屋に嫁が来たとか、傘職人の助さんは昔幕府の隠密だったらしいなどという眉唾物な噂を聞いてきて、毅尚にも話してくれていたのだが、今回の噂はたちが悪すぎる。

「私だってわかってるよ!だからみんなに違うって言ってるのに信じてくれないし、昨日は父親までこの長屋に来て、だからあれだけのお金用意できたんだなって言ってくるし!」
「お父さんが?」

 親の本意ではない男の元へ嫁いだ娘が心配なのだろう。きよの母が時折、女中のみさ江とともに様子を見に来ていることは知っていたが、これから先一切お前たちに関わる気はないと宣言していた勘吉まで来たことに、毅尚は驚きを隠せない。

「蔦屋様が、毅尚さんに絵を依頼したからってわざわざうちに挨拶に来て、毅尚さんのことを誉めそやしたみたい。うちの親、ああいう金持ち大好きだからすっかり舞い上がっちゃって。これから子どもも生まれるし、金は出すからもっといい屋敷に住めって。毅尚さんの用意したお金全部取り上げといて今更何言ってんの?って正直腹が立ったし、こんなこと聞くのは毅尚さんや光楽さんに失礼だって思ったけど、やっぱりまずは毅尚さんに噂の真偽を確認しなきゃと思って」

 話しの流れについていけず、毅尚は必死に頭の中を整理しようとする。きよの父からの申し出は、本来なら願ってもない話しだ。だがなぜ蔦屋が、自分の知らぬ間にわざわざきよの両親に会いに行ったのだろうか?しかもそのせいで、勘吉は毅尚が光楽だと完全に信じ込んでしまっている。長屋の噂といい、明らかに何かがおかしい。

 いや、本当はもっと前から気づいていた。突然仕事場に現れた蔦屋に声をかけられた日から、以前の自分が見たら、羨ましいかぎりの仕事をさせてもらっているのに、わけがわからぬまま流されていくような不安が常につきまとう感覚。

『光楽の親友だったんだってな。一緒に飲んで、あいつの思い出話でもしないか?』

 桁違いの金持ちであるにも関わらず、自分と同じ目線で話しかけてきた蔦屋に毅尚は感動した。それだけ蔦屋にとっても、光楽は大きな存在だったのだと、死んだ光楽に伝えてやりたいと思った。でも、本当にそれだけの理由で、蔦屋は自分に話しかけてきたのだろうか?

(まさか、俺たちがしていたことに気づいていて蔦谷様は…だとしたら…)

 心に浮かんだ疑念に、毅尚はゾッと背筋が冷たくなり鳥肌が立つ。


 あの日、きよの父親に、100両用意しろと言われた日、毅尚は光楽に金の無心をした。

「100両…」
「ごめん、無理だよな…本当にごめん、俺は最低だ。忘れてくれ」

 眉をひそめた光楽を見て、毅尚はすぐに自分が途方もない事を言ってることに気づき言葉を撤回する。だが光楽は、頭を下げ謝る毅尚に、ちょっと待ってろとだけ言い走り去って行った。そして次の日の朝、光楽は100両を手にし、毅尚の前に現れたのだ。

 このお金どうしたんだ?と聞く毅尚の言葉を遮り、早くきよのところへ行けと背中を押してくれた光楽。そんな光楽に、少しずつでもお金を返したいと、稼ぎが入るたびにお金を渡そうとしたが、あげたものだからいらないと、光楽は頑として受け取らない。それではどうしても気が済まず、頼むから恩返しをさせてくれと土下座して頼み込む毅尚に、光楽は思ってもみなかったことを言ってきた。

「わかったよ、そこまでお前が俺のために何かしたいというなら、ひとつだけ頼みたいことがある。今度俺は、江戸で人気の美人を描いた画集を出すことになってるんだが、その絵を、俺の代わりに描いてくれないか?」
「え?」
「正確には、俺の絵に似せて、女の絵を描いて欲しい」
「お前の絵に?」

 それは毅尚が、どんなに自分の絵が売れなくても、可能な限りやろうとはしなかったことだが、光楽の役に立てるのなら、毅尚に断る選択などあるはずがない。

「是非やらせてくれ!」

  始めた当初は、下絵となる画稿は光楽がしっかり描き、毅尚はそれに肉付けして版下絵にするだけだったので、光楽の絵の特徴をより深く知れて勉強にもなると、楽しんで描いてた。しかし光楽の下絵はだんだんと薄い線のみになり、毅尚が殆ど描いたといっても過言ではない状態になっていく。

 恩返ししたい一心だった毅尚は、光楽に心から感謝され嬉しく思っていたが、いつものように地本問屋の店番をしている時、自分のした事の重さに初めて気付き青ざめた。

 新しく並んだ光楽の美人画集。その表紙になっている絵は、毅尚がほぼ描いたものであり、そんなことは知らない客たちが、目を輝かせて買っていく。自分は少し手伝っただけで、あれは光楽の作品だと自身に言い聞かせながらも、毅尚はその時、自分と光楽がしていたことに、深い罪悪感を覚えたのだ。

「なんかさ、お客さんに悪いことしてるよな、俺」
「お客さんて?」
「お前の絵を楽しみにしていた人達だよ」

 光楽の家に呼ばれ酒を飲んでる時、毅尚はつい、言うまいと思っていた胸の内を漏らす。すると光楽は、自嘲するように言った。

「その客の中に、これは違うと言ってきたやつがいたか?」
「いや、いないけど…」
「だろ?みんな光楽っていう流行りの名前に踊らされてるだけなんだ。似たような絵なら、俺の絵じゃなくても構わないし気づかない」
「それは違う!俺は昔からお前の絵が好きだし、蔦屋様だってお前の絵だったから…」

 蔦屋の名前を出した途端、突然光楽は、ひきつけを起こすんじゃないかというほど肩を揺らし激しく笑いだす。

「俺の絵だったからって、蔦屋が?あいつは絵のことなんてなんにもわかっちゃいねーよ、俺の絵がちょっと変わった作風だから金になると思って飛びついたんだろう。その証拠に、ほとんどお前が描いた絵にも全く気づいちゃいなかったぜ?あいつにとって俺は、ただの絵を描く操り人形なんだよ」
「そんなこと…」
「うるさい!もういい!」

 食い下がろうとする毅尚の言葉を、光楽は明らかな怒りを帯びた声で遮る。

「蔦屋様と何かあったのか?」
「いや、なにもない。ただ今日は、お前と楽しく飲んでいたいんだ。悪いけどもうその話しは終わりにしてくれ」

 初めて知る光楽の抱える心の闇を、親友としてちゃんと聞いてやりたいと思うのに、なんと言えばいいのかわからない。

「俺はお前の絵が好きだよ。似たように描いたって、やっぱり全然違う、おまえの絵は特別だ」

 やっと出てきた言葉はそれだけだったが、光楽の表情は、いつもの人懐っこい笑顔に変わっていた。

「そうそう、実は俺な、しばらく江戸を離れて旅にでようと思ってるんだ」
「旅?」
「ああ、最近心から気の合ういい女に出会ってな、彼女と旅をしながら、そこで見たり感じたりしたものを絵にしたいと思ってるんだ」
「へえ、楽しそうだな」
「だろ?」

 それから後は、本当に他愛もない話で盛り上がり、毅尚は楽しい気持ちのまま光楽の家を後にした。まさかその後、二度と会えなくなるなんて夢にも思わずに…


「毅尚さん?」

 気がつけば、深く考え込んだまま動かなくなった毅尚を、きよが心配そうに見上げていた。

「俺、ちょっと行ってくる」
「仕事に?」
「いや、蔦屋様のところ」
「え?」
「きよちゃんは心配しないで、とにかく長屋のみんなに光楽は俺じゃないからってよく言っておいて!」
「わかった」

 頷くきよに背をむけ走り出した毅尚は、絵を依頼された時の、蔦谷との会話を思い出す。

『なあ毅尚、光楽の親友だったお前に、是非頼みたいことがあるんだ。光楽が描くはずだった花魁の絵を、お前が光楽の代わりに描いてくれないか?死んだ光楽も、お前が引き継いでくれれば、きっと喜ぶと思うんだ』
『あ、はい…でも、俺でいいんんですか?』
『もちろん。ただ一つだけ、とても言いにくいんだが条件がある。今回絵を依頼してきた玉楼の女将は光楽の絵が大好きでな、なるべく光楽の絵に似せて描いてほしい。光楽の親友として、光楽の絵を愛した人々のためにも、光楽の最後の仕事を、どうしてもお前に引き受けてほしいんだ』
『…はい、僕でよければ』

 蔦屋に聞かなくてはいけないことが沢山ある。例えそれがどんな結果を生み出すとしても、目を逸らすわけにはいかない。光楽の親友として、毅尚はただ真実を知りたかった。


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