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メンタル弱い自分を受け入れる勇気

ネットで「メンタル」と調べると、「メンタルの強い人がする行動」や「メンタルを強くするためには」という言葉が並ぶ。誰だって傷つきたくないからメンタルは強ければ強い方がいいのだと思うのかもしれない。

わかっているけれど、メンタルは筋トレみたいにわかりやすくトレーニングできない。メンタルが強かったらネガティブになることもないのだろうか。

わたしは落ち込むことが続くとネガティブループに入ってしまう。
決まってネガティブループに入るのは深夜だ。

例えば、誰かに相談したい・愚痴を聞いて欲しいと考えたとする。そもそも、ネガティブなことは聞いていて面白くないと思うので、真剣な悩みほど他人へは話しにくい。連絡しようと考えれば考えるほど、ネガティブループに突入してしまう。

「気持ちを受けとめてほしいだけ。だけど重いよね」
「もはや愛想尽かされているかも」
「なんで他人よがりで自己完結できないんだろう」

自分のことを自分で解決できないことも嫌。
自分のせいで相手が重く感じてしまうんじゃないかと思うのも嫌。
解決策が見つからないまま、苦しさを紛らわすために他事に没頭する。

「メンタルを強くする」と同じくらい「自己肯定感を持つことが大事だ」という言葉を見つける。
自己肯定感を持っていれば、自分で自分のことを認めてあげられる。相手に依存しなくても生きていける。それならわたしも自己肯定感を持ちたいと思った。
しかし、自分に自信を持たねばという課題感と、すぐには改善できないもどかしさとの間で、またネガティブループに入ってしまった。

そこで、わたしはなぜ「自分のことは自分で」と考えるようになったのかと内省してみることにした。

遡ること10数年前、受験生だった頃、親から「落ちる」という言葉をわざと使われた。「落ちる」という言葉に反応するようなメンタルではいけないからという理由だった。自分から「落ちるって言わないで」なんて伝えたことはなかったが、受験生なりにピリついた空気があったらしい。
親の対処の是非はさておき、「メンタルは強くあらねばならない」という教育があったことを垣間見ることができる。

親の教育だけでなく、自分自身の中にも「自分は強くあらねばならない」という固定概念がある。

わたしは「かまってちゃん」が嫌いだ。
みんなで深夜作業をしてしんどい思いをしたとき、「心が何も感じないんだよね」とか言い出した集団に嫌悪感を持った。SNSで「ちょっと無理しちゃって体調が悪く~」なんて文章を見たらミュートしたくなる。
かまってちゃんが嫌いな理由は「自己管理すればいいのにわざわざ他人にかまってもらうために発信するなんて」という考えがあるからだと思う。

少女漫画に出てくるような男の子に守ってもらうなよっちい女の子は嫌いだが、ジブリに出てくる強い女の子は好きだ。わたしも、大事な人は自分で守れるような女の子になりたい。

困ったことを一人で解決できない、守ってもらわないと立てない、お姫様扱いされるような女の子。嫌いなタイプ。それに自分が近くなってしまうことが耐えられないのかも、と思った。

メンタルを強くするという記事が流行っているのは、うつ病が身近な問題になっているからだと思う。
傷つきやすい自分に対して、HSPや繊細さんなどというラベルを貼って、課題を明確にしてみる。課題が明確になれば改善するためのToDoが見えてくる。そうして自己肯定感を高める施策が出てくる。
結果、ToDoをしてみてもすぐには解決できず、PDCAを回すこと自体がしんどくなり、さらに自己肯定感が低くなる。

でも、よく考えてみてほしい。
大事なのはPDCAを回すことではない。
自分が幸せに生きていくことが大事だ。

真剣な悩みを吐露したい相手は、ちゃんといる。
相手が迷惑だと思うかどうかなんて聞いてみないとわからないのに、自分が勝手に妄想して迷惑かけてると思い込んでいるだけ。
大事な人には頼ってほしいと思うなら、まずは自分から頼らないといけないなと思う。

「自分はメンタルが弱いんだ」と認めた上で、誰かに助けてもらわないと乗り越えられないと観念する。そして、ネガティブループに入らないように自分を保つ。

ここまで自己分析をしてやっと頼ることができた。
不器用な自分を受け入れる勇気、少し持てた気がした。


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