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未来の私に贈る唯一無二の物語を、今日も明日も淡々と綴ろう


昔使っていた「ほぼ日手帳」に、さまざまな紙ものを貼っていた。

「ほぼ日手帳」は1日1ページの構成で、その活用方法は幅広い。ただ予定を書くだけにとどまらず、シールや切り抜きを貼るような「デコる」手帳の使い方を広めたのはこの手帳では?とすら思うほどだ。学生の頃から10年ほどは、この手帳のお世話になった。

ZINEを書くための資料探しの一環で、いま手元に残している6年分の手帳を引っ張り出した。ぱらぱらと適当にページをめくってみる。美術展の入場券、演劇チケットの半券、海外に行ったときの航空機のチケットの控え、偶然訪れたカフェのショップカードなどが、ほんの少し色褪せつつも鮮やかに目に入る。

貼り付けた紙ものたちによって、手帳の厚みは背表紙に対して2倍近くになっている。この分厚さは「ほぼ日手帳ユーザーあるある」だと思っているのは私だけだろうか。

現在は「ほぼ日手帳」は使っていないが、代わりにドキュメントアプリの「Notion」で日々の記録をつけている。チケットやショップカードを画像ファイルとしてページ内にアップロードすることで、擬似的ではあるが、貼る枚数に上限はなくなった。PCやスマートフォンさえあれば、旅先でもカフェでも、場所に関係なく毎日の記録を書ける。

旅行から帰宅した後、白紙だらけの手帳やたまった紙ものを前にげんなりすることは明らかに少なくなった。持ち物を減らしたい今は、デジタルで記録する方法が自分に合っている。


ただ、久しぶりに紙の手帳を手に取ってみて、デジタルで取る記録とは明らかに違うものがあるなあ、とも感じている。

ページの隅に合わせて貼られた博物館の展示の半券。そこからカラフルなペンで伸びる引出線と、その先にあるメモ。演劇のチケットの半券をめくると、その下に細かい文字でびっしりと感想が書かれている。好きなキャラクターのイラストもたまに登場する。

記録を見るたびに、そのとき何を考え、何を感じていたのか、鮮やかに蘇ってくる。書いた日の自分がどんなテンションだったのか、何を経験したのか。楽しかったイベントの記憶だけではなく、人間関係での葛藤や、仕事でいやだったこと、その時々で本気で悩んでいたことも同様に思い起こされる。

時間があったのか、それともやけっぱちになって雑に書いたのかも不思議と分かる。余白からは、書けなかったこと、書かなかったことも否応なしに現れる。

デジタルデータでの記録は場所を選ばず、日々の記録を手軽に続けられる。しかし、紙の手帳と同じような質感はないし、あったとしてもごく少量だ。だからこそ、感情的になりすぎず、フラットにその日の出来事を振り返られる。良い出来事も、悪い出来事も、書いた文章の量と内容だけで推し量ることになるだろう。

デジタルは人のあたたかみがなくて無機質だからアナログが良い、といった信仰は持っていない。デジタルとアナログ、どちらにも独自の味わいがある。(しいて言うなら、デジタルには余白を作りづらいくらいか。)


どちらの方法であっても、記録を残すこと自体にはそれなりに意味がある。振り返りをしようとかいう堅い話ではない。時間が経過してからその記録を読んでみると、読み物としてけっこう面白いのだ。他人に見せる前提で書いているわけではない記録も、未来の自分にとっては何よりもおもしろい読み物になる。

読み物にするコツは、どうしたかの記録に加えて、そのときの感情も書いておくといい。何にどう心が動いたのか。あるいは、他の人が心が動くであろう場面で、自分だけ感情が凪だったとか。

観た映画の話なら、周囲のお客さんが何人も号泣していたのに自分はまったく泣けなかった、むしろ憤りを覚えた、と書いておく。雑踏のなかにハッとするような美しい景色を見て、自分だけがこれに気づいているのだと思ったら優越感がこみ上げてきたとか。他人から言われたことをムカムカと思い返してしまったとか。ごく個人的な感情を書く。

コンテンツとして楽しむ読み物は、感情が付記されているほうが圧倒的に面白い。フィクションに限らず、自分が書く文章でも例外ではないはずだ。

この辺りの話は、古賀史健さんの「さみしい夜にはペンを持て」に「日記を読み物にする」という文脈でひととおり書かれていた。ぜひ読んでみてほしい。


過去の記録を読み返してみると、さまざまな記憶違いに気づく。逆に、当時のことを鮮明に覚えているケースもある。これも、記録を続けなければ分からなかったことだ。

石巻や女川にひとりで行ったときの景色は今も鮮明に覚えている。ただ、どんな経路で向かったかは、自分の記憶と手帳に書かれた記録が食い違っていた。始発電車で移動したことだけは合っていたが、途中下車した駅のことはほぼ覚えていなかった。

記憶は、時間の経過によって都合よく変質する。一方で記録は、書いた時点での経験や感情が、そのとき選んだ表現、選んだ言葉でパッケージされる。
自分の経験を蓄積していくために、記憶も記録も、どちらも必要不可欠なものだ。記録があることで新しい読み物が生まれ、その読み物によって、変質する記憶を許容できる。

何にせよ、記録がなければ、記憶との差分を楽しむことも難しい。


何をして、もしくはどんな出来事が発生して、どんなときに心が動いたかを、ひとつずつ記録に書き留める。

どこに行ったか。何を食べたか。どんなイベントに参加したか。誰とどんな会話を交わしたか。はじめて見た景色に感動したとか。おすすめされて食べたものが美味しかったとか。日常の風景の小さな差異に気づいたとか。いやだったことももちろん書く。

当時おおごとに喚き散らかしていたことは、半年も経てばどうでもよくなっている。一方で、同じテーマで繰り返し悩み続けていることにも気づく。

感動して「この気持ちは一生覚えておこう」と決めた感情すら、数年経てばそのときの熱量は維持することはない。でも、形を変えて自分の中には存在している。それも、記録を続けていたら分かることのひとつだろう。


変化し続ける自分自身のために、これからも淡々と記録を続けていくことにする。未来の自分に向けて、唯一無二の贈り物を書き綴っていけるといい。

未来の私は、どう楽しんでくれるだろうか。


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