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【短編小説】かけがえ

このまま死んだらニュースになるのかな。《過労死した大手企業美人社員》ていう特集を組んでほしい。《美人》て付いていれば少しは浮かばれるかも。

こんなこと考えていられるだけ、まだ死ねそうもない。いっそバターになってしまおうかと、黄色いパジャマを着てベッドに沈み込んでいるとき、玄関のチャイムが鳴った。

バターにはなれなかったわたしは立ち上がり、玄関のドアを開けた。そこにはわたしの身なりに似た女性が立っていた。彼女は「はじめまして」とちいさく会釈をし、微笑みを浮かべた。

思わず「はじめまして」と返すと、彼女は安心したかのようにもう一度会釈をした。それから、

「わたしはあなたの、かけがえです」と言ったのだ。

わたしは「そうですか」と答える。「入っていいですか」と彼女に言われると、まるで当たり前かのように「どうぞ」と彼女を部屋にあげた。

冷蔵庫にビールがあったので、それをとりあえずテーブルに置く。

「飲みますか?」と聞くと、「頂きます」と彼女はビールを手にした。わたしたちはなんとなく乾杯をする。

ひとくちビールを飲むと、わたしはふっと意識を失った。バターになる夢を見たと気が付いたのは、朝になってからだ。朝になっては間に合わない。日が出る前に会社に行かなければ、とわたしの身体が動悸を起こす。とにかく着替えなくては! と目眩でぐるぐるする世界の中に、文字を見つけた。

《代わりに会社に行ってきます。ゆっくり休んで。 あなたのかけがえより》

わたしはそれを見つけた瞬間、今まで感じたことのない深い安堵に包まれた。そうか、もういいか。とにかく寝よう。とにかく寝るんだ。何もかも忘れて、わたしは深い眠りに落ちた。

それからしばらくわたしは、「かけがえ」にすべてを委ねた。仕事も、家事も、煩わしい人間関係すら、かけがえに代わってもらった。かけがえは文句も言わず、それらを淡々とこなしてくれた。わたしはバターになる夢ばかりを見ては、毎日のように泣いていた。

「泣けるようになったのは、よかったですね。以前はなにも感じることができなかったほどでしたからね」

かけがえにそう言われてわたしは少しずつ生き返ってきた気がする。バターになる夢もだんだんと見なくなった。

「わたしにとって、あなたはかけがえがないよ」

そうかけがえに言うと、かけがえは正座になり、ほほえみながら言った。

「わたし、恋人ができました。ですから、あなたのかけがえをやめようと思います」

え? とわたしは虚をつかれて動悸を感じてしまう。落ち着け、落ち着け。わたしはおもむろに立ち上がり、冷蔵庫からビールを取り出す。そして、「飲む?」とかけがえに聞く。かけがえはしばらくわたしを見てから、頷いた。

「これ、飲んだらいなくなるんだよね?」

と、わたしは予感していることを言う。
かけがえは、柔らかい表情を浮べて「はい」と言う。そして「でも」と続ける。

「もっと大事なことを思い出すことができると思います」

「そっか。じゃあ、怖くないね」

「はい、怖くないです」

「しあわせにね」

「わたしにとって、あなたはかけがえがありません」

「乾杯」

「乾杯」



かけがえがいなくなってわたしは、自分で仕事をし、自分で家事をし、生活をし、自分で人間関係を作った。つまずくこともあるけれど、ニュースになりそうなほど、追い込まれることはもうない。

「君は、俺にとってかけがえがない存在だよ」

と言ってくれる恋人ができたことだけが原因ではない。当たり前に何かが出来ている、そのことは、ほんとうはなにも当たり前ではなく、もっと誇っていいことだと気が付いたからだ。

「わたしには、かけがえがいたんだ」

「かけがえって、いるの?」

「いた。でももういない。その人が教えてくれたことが、今、わかった」

「そうか」

恋人は困ったような顔をしているけれど、「そうか」と言ってくれる、それだけでいい。

かけがえがいなくなったわたしは、かけがえがないんだ。かけがえは自分がいなくなることで、かけがえがないことを教えてくれていたんだと、わたしは思う。

「乾杯しない?」

と恋人がビールを持ってくる。

「何に?」

「かけがえのない世界に、かな」

わたしはちいさくほほえんで、頷いた。







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