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短編アーカイブ「空に星が綺麗」

コートのポケットから手を出すことができない。そのぬくっとしたあたたかさをいつまでも閉じ込めておきたい。たとえばモツ鍋を食べるときのような、あたたかさだ。

そんなことを思うぼくの隣を、彼女は歩いている。モツ鍋ではなく、今日は焼肉を食べた。彼女がぼくを呼び出すときは、たいてい何かにつまずいているときで、そしてたいてい肉を食べる。肉を食べたいから会っているとも言ってもいい。季節ごとにやってくるその肉の周期。だから、ぼくは彼女と1年に4回会うことになる。今日は4 回目、季節は冬だ。彼女も同じようにコートのポケットに手を入れている。帰り道、空には星が瞬く。とても綺麗だ。

「口笛吹ける?」

彼女はぼくに聞いた。さっきからこんなふうにとりとめもない話ばかりしている。口笛が吹けないことはわかっていて、吹いてみた。スカスカした北風のような音を鳴らすぼくに、彼女は涙を流した(笑い過ぎで)。 ぼくも自分で自分がおかしくなり、笑った(涙を流すほどではない)。

「へたくそだねぇ。そんなにできないと思わなかった」

彼女は、けらけら笑っている。

「ちなみに今、何吹いてたの?」

「『夜空のムコウ』のはじまりのところだよ」

ぼくも、けらけら笑ってる。

「全然わからなかった。もう一回やって?」

そのフリを待ってたぼくは、また思いっきりスカスカした北風を吹いてみる。ぎゃははは! どうやらツボに入ったようで、それを5回続けてみた。そして、ちょっと飽きてきたなってころ、彼女はやっと落ち着いた口調になった。

「箸が転んでもおかしい年頃って、こういう感じ?」

「それ、高校生くらいの年頃じゃないの? おれらもう28になるっていうのに」

「そっか、でも面白い。なかちゃんといると、箸が転んでもおかしい年頃になっちゃうよ。これって、恋なの?」

そんなことを彼女が言うので、ぼくはまた、吹けない口笛を吹いてやった。ぎゃははと彼女は笑う。

「そんな出まかせばっか言ってないで、空でも見てごらんよ。今日はなんとか流星群が見れるんだってよ」

ぼくらは空を見上げた。だけど、なんとか流星群らしきものは見当たらなかった。

「なに流星群?」

「モツ鍋座流星群かな?」

「そっちこそ、出まかせじゃないの?」

それほどウケずに、彼女は小さく笑った。

「まぁ、いいじゃん」

ぼくも適当だ。

「でも、星がきれいだね」

「うん、きれいだ」

「なんか、すっきりした。いろいろ」

それは本当にすっきりしたような、柔らかい言い方だった。

「そっか、それはよかった」

「ありがとう」

「いいえ、こちらこそ」

「今度はモツ鍋が食べたいなぁ」

彼女もポケットの中に、モツ鍋のようなぬくもりを感じたのだろうか。少し、うれしくなる。

「あぁ、いいよ」

ぼくはポケットから手を出して、思わず彼女の頭をポンポンと触れた。彼女はそれに少し笑って、つぶやいた。

「はぁ、モツ鍋食べたいなぁ……」

空にはほんとにモツ鍋座があるんじゃないかってほど、彼女は切実そうに言った。

(2008)

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