【ピリカ文庫】金色の船
本当に心臓が破れるかもしれない。「心臓破りの坂」に入ったところで、彼はそう思った。テレビカメラは彼の苦悶の表情を映している。あ、でも赤ちゃんのときは、心臓が破れていたんだっけ。覚えていないけど、両親がしきりにそんな話をしていたことを彼は思い出している。
「イチゴとレモンとメロン、どれにしますか」
手術室の前で麻酔科医が彼の両親に聞く。質問の意図がよくわからずに彼の両親は、困惑している。彼はメロンという響きがいいなあと思う。少しでもリラックスして手術を行えるようにと、子どもの好きな匂いで麻酔をかけますと麻酔科医は続ける。まだ赤ちゃんの彼がどんな匂いが好きか、両親にはわからない。それでもどちらからともなく「じゃあ、メロンで……」と言うと、麻酔科医は「わかりました」とにっこりと笑った。
手術室のドアの向こうには、医師や看護師らが柔和な表情を浮かべて並んでいた。壁には、まるでパレードが行われるかのような華やかな愛くるしいイラストが描かれている。金色の船がキラキラと眩しい。そこへ運ばれていく彼が、夢の国へ行ったまま、もしかしたら帰ってこないかもしれないと、両親の胸は張り裂けそうになっている。
そういう話を、彼は両親から何度か聞いたものだった。
「メロンか……」
彼がつぶやいた言葉が、ちょうどテレビカメラのマイクに拾われた。アナウンサーがそれを伝えると、解説者が相槌を打ち、ラリーをはじめる。
メロン、とつぶやきましたね。
ええ、つぶやきましたね。
なにか思い当たる節がありますか?
いや、彼のことはよく知っていますが、メロンの話は聞いたことないですね。もしかしたら苦しい状況で何か楽しいことを考えているのかもしれませんね。
なるほど、レースは心臓破りの坂に入りました、ここが勝負どころです。
テレビはそこでCMに入った。彼は、そういえば、あの子はどうしてるんだろうと、初めてあのときのことを思い出した。手術が終わった後に隣のベッドにいた子のことを。彼女は、彼と同じようにカラフルな管に繋がれていた。拳は包帯でぐるぐると巻かれて、酸素マスクをしている。モニターが波打つ音がなぜか心地良い。彼女が何かを言ったのは、たぶんテレパシーだ。
「ねぇ、何の匂いにした?」
彼は返す。
「メロン、っていうやつみたい」
メロンをまだ食べたことがなかったので、何がメロンかわからないけれど、両親がそう言っていたのを聞いた、と彼は付け加えた。
「へぇ、わたしは、レモン。なんかちょっとツンとしたよ」
「そっか」
「あなたは、元気になったら、何がしたいの?」
「え、元気だと思ってたけど、ぼく、元気じゃなかったの?」
彼はそのとき、驚いた。元気じゃないから手術したんだよと彼女に言われて、じゃあ、これ以上元気になってしまうのかって、ちょっと怖いくらいの気持ちになった。だから、きみは? って、彼は聞いていた。
「わたしはねー、走りたいなあ。走って、いちばんになるの」
「それって、おもしろいの?」
「おもしろいかわからないから、やってみたいの」
「そうなんだ」
「でもたぶん、それは叶わないと思うんだ」「そうなの?」
「うん、だいたいわかるじゃん、そういうの」
「じゃあ、ぼくも走ってみるよ、きみが叶えられなくても、ぼくが叶えるから」
「それはうれしいなあ! 走ってて苦しかったらわたし、金色の船で迎えにいくから!」
CMがあけて、テレビに映る彼の頬には、涙が流れている。
あー、苦しいのでしょうか、泣いているようにも見えます。
そうですねー、ほんとに苦しいところですがどうにかゴールしてほしいですね。
坂道の向こうに、金色の船が見える。あの手術室の絵と同じだ。その船にあの子が乗っている。そうだ、あの子はあのまま……そうだったんだよな……。彼は、はっきりと思い出した。
はじめてだね、と金色の船に乗った彼女が言う。うん、と彼は頷く。
「ずっと楽しそうだったから、会いに来なかったんだけど」
「ずっと見てたの?」
「うん、わたしがしたかったこと、ずっとしてくれてて、嬉しかった」
「ずっと楽しかったんだけど、ちょっと辛くなってきて。楽しかっただけなのに、期待されたり、批判されたりすることがちょっとずつ、苦しくなっていってしまって」
「苦しかったね」
「うん」
さあ、この坂を超えればゴールが見えてくる! オリンピックへの道も開けるぞ! がんばれ! がんばれ! 実況の声がなぜか聞こえてしまう。うるさい。彼の心はぐちゃぐちゃになる。
「あのときのメロンは、いい匂いだった?」「うーん、どうだったかな、あ、でもね、あのあとレモンを食べたらね、すごく酸っぱくてさ、きみ、よくこの匂いを選んだねって思ったよ。でも、それできみのこと、なんとなく心の奥に残っていたのかもしれないね」
少しずつ、金色の船が近づいてくる。いや、彼が船のほうへと進んでいるのだ。2位の選手がやってくる。おそらく彼は抜かれるだろう。明らかにペースが落ちてきている。
おーっと、抜かれてしまう! あと少し、食らいつけ! がんばれ! がんばれ!
「いいよ、頑張らないで。わたしはずっと、あなたを見ていられて、すごくしあわせだったよ。走るのって楽しいって、あなたはずっと教えてくれたよ。もうじゅうぶん。ありがとう」
金色の船から、紙テープが舞う。彼女が投げた七色の。彼は、それをさっと拾った。汽笛が鳴って、船が出ていく。さあ、旅立ちだ。離して、離さないで、離して、いやだ、離さないで、ありがとう、ありがとう、大好き、大好き……!
長いCMのあと、彼のインタビューが流れ始めた。
「最後の心臓破りの坂、どんな気持ちで乗り越えましたか」
彼は、ひと息ついてから、答えた。
「一緒に楽しんでくれる人がいたので、人生を」
「人生を?」
「はい、人生を」
インタビュアーは困惑したのか、唐突に「今、何が食べたいですか」と聞いた。SNSでは、♯バカな質問 がトレンドになっている。そのバカな質問に、彼は真摯に答える。
「メロン……いや、レモンですね」
金色の船の上で、あの子が笑っている。
心臓はまだ、破れていない。
(了)
テーマ「坂道」
ピリカさんより、ピリカ文庫の依頼を受けまして、短編を書かせて頂きました。すっかり短歌や超短話中心の創作になっていたので、長め?(自分にとっては)のものを久しぶりに書けた気がします。ピリカさん、このたびはありがとうございました!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?