見出し画像

『日本型学校システムの政治経済学』刊行記念・著者インタビュー

こんにちは、有斐閣書籍編集第2部です。
この春に刊行した『日本型学校システムの政治経済学――教員不足と教科書依存の制度補完性』の著者、大島隆太郎先生に本書の内容や研究の背景などについておうかがいしました。その模様をお届けします。

――無事に刊行となりましたが、できあがった本を手にしたとき、どんな気持ちになりましたか?

大島:思いのほか、軽い。そして、薄い。というのが、率直な第一印象です。350頁くらい書いたけれど、手元にあった200頁ほどの別の研究書とそんなに変わらない厚さに仕上がっているのが驚きで、本体部分の紙質の違いを実感しました。「やっと本になったのを実感した」といった回答が期待されているのかもしれませんが、手にしたときは、本そのものへの感想が先でした。

――なるほど(笑)。有斐閣では薄く裏写りしにくい紙を使用することが多いです。でも、「物」としての教科書を分析された大島先生ならではのご感想かもしれません。そのあたりについてはまたのちほどおうかがいさせてください。
 では、まずは本書の内容を簡単にご説明いただけますでしょうか。

どのような本か?

大島:公式の導入から150年を経た日本における近代学校制度を根底で規定している構造あるいは性質を論じたものです。昨今、教員不足が政治課題になるほど問題化していますが、歴史的に見れば教員の確保に苦慮していたのは、戦前から戦後まもない頃までにも当てはまる慢性的な課題で、決して「新しい」問題ではありません。そのような教員不足のもとでもそれなりに機能してきた学校制度が構築できたのは、教科書という「物」に過剰なまでに依存する方策がとりえたことが鍵となります。ただし、そのような方策を制度として安定化させるには、いくつかの政治的・経済的条件を満たす必要があって、そうした条件をどのように歴史的に達成してきたのか、戦前・戦後の制度転換の際に何が変わり、いかなる対応が必要だったのかを本書では検討しています。そして、そのような構造や性質が現在の学校に及ぼしている影響、今日の高度な情報技術が与えうる日本の学校制度への影響も考察しています。

――ありがとうございます。「教員不足」は戦前からある問題だったのですね。その点を考えるにあたっても、本書は参考になりそうです。大島先生のなかでは、この研究はやはり教育学的な関心の成果として位置づけられているのでしょうか。

「教育の行政学」という視点

大島:基本的には、教育学的な関心として、日本における学校教育制度の性質を明らかにすることが課題ですが、教育的あるいは教育学的規範に基づく分析や評価を可能な限り排し、日本の学校教育システムが安定的に機能する条件について、その通史を政治的・経済的に分析したものです。この点で、本書は、「教育の行政学」と呼ばれる研究の一種になります。

――「教育の行政学」については本書の第1章にも詳しい説明がありますよね。

大島:2014年に私の指導教員である村上祐介先生(東京大学)が答えているインタビュー記事「教育は誰が統治しているんだろう?――教育を構造的に眺める 教育行政学者・村上祐介氏インタビュー」というものがあって、ここでは、本書でも言及している「教育の行政学」について、「教育行政の学」との違いと比較して、一般向けにかなり砕いた説明をしているので、本書の「系譜」や学的な背景を知ってもらうのに役立つかもしれません。また、このインタビューのまん中くらいに、教育、そして高校生が政治に巻き込まれる(*インタビューの趣旨が高校生向けのため)という話が出てきて、「ゆとり教育」がそうした例の1つとして言及されています。本書の根底にある問題意識は、私自身が、まさに、そのゆとり世代の1人として経験した教育とは何だったのか、そこで起きていたこととは何だったのかというものです。

――この記事は私も覚えております。この記事は2014年8月に出たようですが、この頃、大島先生はすでに本書の研究に取り掛かられていたんですか?

大島
:そのとき私は修士1年で、ちょうど最初の公表論文(学習指導要領の移行措置の問題)を書いていて、村松岐夫『行政学教科書〔第2版〕』(有斐閣,2001年)、曽我謙悟『行政学』(有斐閣,2013年,※リンク先は新版)などを読んで、行政学の本格的な勉強を始めたころです。まだ、本書に直接つながる研究は着想すら得ていない段階です。

――なるほど。それで、大島先生はこの記事にあるような「教育の行政学」として研究されたんですね。

大島:ただ、私の場合、「教育は誰が統治しているのか?」ではなく、「教育はどのように統治しているのか?」の方に関心が向きました。政治学と行政学の違いを区別して説明するときに、政治学の関心は “Who governs?” で、行政学は “How governs?” であるという言い方をする場合があって、これに対応させたものです。現在、「教育の行政学」という場合、実態としては「Who」にかなり関心が強い政治学的な議論が多くなっていて、それほど「How」が中心にあるわけではありません。でも、「教育を構造的に眺める」にしても、「教育はどのように統治しているんだろう?」という問いと組み合わせてもいいはずです。教育は特殊であるということを前提にしないで、教育行政のHowを問題にしたのが本書だと言えるかもしれません。

――なるほど。本書は分析アプローチも特長的で、ゲーム理論はじめさまざま手法を用いられていますよね。

大島:そうですね。非常に学際的な特徴もあり、分析の基本枠組みでは経済学の理論を借用してゲーム理論を使ってみたり、制度選択の場面では政策過程分析を行ってみたり、教科書の図書としての性質を論じる背後には図書館情報学の知見があったり、全体としては日本の近代化論の一種として社会学的な関心からも読めたりするような、そんな内容です。

――扱う歴史の範囲も広く壮大なご研究でした。あえて本書のキー概念を1つ上げるとすればなんでしょうか?

所有制の均衡としての教科書制度

大島:本書の鍵概念は「所有制の均衡」です。所有制とは、教科書や教材を児童・生徒個人の所有物(私有物)として、調達・配備するあり方を指したものです。諸外国には、それらは学校の物として児童・生徒個人には貸与するというあり方も存在していますが、日本では、多くの物について、児童・生徒個人に与えるか、個人で使えるよう買わせるのが基本になっています。そして、戦前と戦後で教育制度は大きく変わったということになっていますが、この所有制が学校システムの根幹にあることは、戦前から変わらず、というよりその部分を維持するように制度選択がなされ、21世紀の今日に至るまでずっと続いています。日本の学校システムは、この所有制の均衡にあることで、量的・質的に不足する教員の問題に物によって対処してきた一方教員の専門性における経営的側面の脱落教育費負担の安易な私費化と価格高騰に対する困難といった様々な構造的な問題を引き起こしてきた、少なくともその一因になってきた、というのが本書の大まかな主張です。

――日本のように教科書を個々人で所有するのは、必ずしも当たり前ではないのですね。この日本の教科書制度における「所有制の均衡」が、教員不足や教育費負担の私費化や価格高騰などの問題に関連しているんですね。そういった仮説を立てられたきっかけはなんだったんでしょうか?

大島:まず、これまで教科書の給付制/貸与制という議論はあったけれど、私費購入の部分は議論にあまり含まれないし、体系的にその違いを整理して論じられてきたとは言えない状況がありました。この問題を考えるときに、教科書もまた「図書」であると再認識したのですが、司書の資格を持っていることもあって、図書館のあり方が念頭に浮かびました。特にヒントとなったのが、貸出し利用の典型的な存在としての図書館における図書の蔵書構築と管理に係る問題と、外国(特に米国)においては知識・情報を集積する場として図書館の社会的な機能が一定程度認められているのに対し、日本においては図書館が無料貸本屋などと呼ばれてしまっている現状がある問題です。

――それぞれの問題の背景にはどういったことがあるのでしょうか。

大島:前者は、蔵書構築には、司書の図書に対する専門性、利用に即した購入方針の決定などが求められるとされること、後者は、日本の図書館が無料貸本屋になってしまうのは、取次寡占の影響で一般向けの図書となると街の書店とラインナップがあまり変わらない、しかも再販価格維持制のために、どこの本屋でも基本的に同じ本が同じ価格で買えることなどが背景にあることが、それぞれ関連します。しかも、日本では、そのような状況もあって、専門職としての司書の地位は教員以上に低く扱われてしまっている現状があります。

――なるほど。それらの日本の図書館についての問題認識がどのように今回の研究に結びついていったのでしょうか。

大島:こうした問題を,学校における教科書利用と教員の関係に置き換えて考えていきます。そこから,教科書を個人所有=給付または私費購入とするか,学校所有=貸与とするかで,さまざまな側面、例えば購入・予算執行・管理・更新の方法、教科書選定者に要求される専門性の水準などに影響や差異が出てくるだろうし、教員の専門性の扱いに関わる彼我の差は、出版市場と図書館と司書の関係のように、何か相互に関連のある全体的な構造に起因するものかもしれない、といった考えを持つに至ります。そして、さらに演繹的に議論を進めていって、日本における学校の中で生じている(きた)ことのうち、説明できることは何かという形で仮説を色々出したという感じになります。こうした議論を進めるに当たって、常に、意識していたのは、全体像が各部分からどのように出来上がっているか、それを歴史的・同時的に分析するというもので、比喩的に表現するならば、どういう「音楽」が「奏でられている」か「聞く」という感じになるでしょうか。

――「音楽」ですか? もう少し詳しく教えてください。

大島:ここで音楽を比喩にしたのは、まず、音楽には時間軸がある。そして、独唱などの場合を除けば、基本的に複数のパートから構成されていて、各奏者が同じ時間軸の中でそれぞれのパートを担うことで、全体として1つの曲になるという点からです。このとき、各パートだけでは、絶対にその曲にはならないし、一方で、全体を詳細に理解しようと思ったら、各パートの細部を聞いて、各パート間の相互関係も気にしなければならない。しかも、同時に演奏、つまり曲として演奏された場合にのみ聞こえてくるものもあるかもしれない。このイメージで、こういうことが社会の中でも起きているのではないか、と考えるわけです。本書でいう、各制度はそのような各パート、システムは全体としての曲に対応していて、歴史的展開は時間軸に沿ったその動的な状態と捉えてもらえばわかりやすいかと思います。比較制度分析の枠組みを参照したのは、そのような一種の「世界観」に合った部分を表現できる可能性があると感じたためかもしれません。

――そういうことですか。いろいろ側面から、またさまざまなアプローチで分析されているので理解の厚みが増しますよね。
 では今後の日本の教科書制度や教育システムを考えるうえで、本書の分析内容や結論からどういった点が議論の参考になりそうだとお考えでしょうか?

「処方箋」を練り直すために

大島:基本的に、本書の議論は、現状の維持・管理、メンテナンスという意味で、制度やシステムの保守に強く意識が向いていることが特徴だと思います。そのうえで、どこをいじると何が起こりうるかという議論を行っていく。この頃、風当たりの強い部活動と教員の問題に触れた箇所もありますが、恐らく極めて保守的な態度になっていると思います。そして、現状維持すら覚束ないし、そういった議論が不足しているという悲観的な議論を重ねたうえで、現状を維持するにしても,どこに変革の余地があってそのような変革の先にどういう教育システムの可能性が開かれているのかを示唆したものです。だから、もちろん、現在の教育システムをどう改革するのかを考える際の参考になるかもしれませんが、本書は、現在の教育システムを積極的に変えようという意識から読まれるべきものではないと思います。そうではなくて、これまでの教育改革がどうして空回りだったのかを、一度、立ち止まって見つめ直して、「処方箋」を練り直す。そういう使い方に役立つのではないでしょうか。

――なるほど。それでは最後にどういった方に読んでもらいたいか教えてください。また読者へのメッセージをお願いします!

大島:教育がどうあるべきか、いかに現在の学校システムは問題を抱えているか、というのではなく、どうしてこのようになってしまっているのかについて考え直したい方を基本的な読者に想定していますが、教育に関心はないけれど、制度の採用や安定を左右するものは何かに関心があるという方にもお楽しみいただけるかと思います。教育制度であっても政治も経済もどちらも無視できないことが伝わるのではないでしょうか。ぜひご一読ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?