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『活かすゲーム理論』刊行記念・座談会④

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削り合える仲

浅古:それでは、次にオンラインの話、Webサポートの話に移りましょうか。

――よろしくお願いします。

浅古やりすぎましたよね

森谷:そうですね。なんか多いですよね。

浅古:騙されましたよね。

――私どもが(騙した)?

森谷:このままWebサポートを足していくと教科書と同じくらいの分量がもう1個Webに載ることになるんじゃないですか?

――同じ分量ということはないと思うんですけど、100ページ以上は優にありそうな感じがします。私が担当した今までの本の中で、充実ぶりはおそらく一番だと思います。

浅古:ただ結果として、さっきも言ったように私の場合は通貨危機をボツにされたり、いろんなところがボツにされたんですよ。図を丁寧に書いて利得表を出すまでのストーリーが長すぎると言われたり。あと図斎さんも削られている印象があって。

図斎:(大きくうなずく)

浅古:応用がメインです。でも、もちろん同時にゲーム理論の背景を理解しましょうというところも両方しっかりセットになった教科書になっているから、応用を深堀りしすぎているところと、ゲーム理論の理論部分を深堀りしているところをいろいろ削除せざるをえなくなっちゃいましたよね。だから、100ページのうち追加で書いたのもありますけど、結局書き直しているところも多くて。

森谷:あと浅古さんあれですよね。第5章の参院不要論もほぼ完成した原稿がありましたもんね。

浅古:そうそう。

森谷:ほぼほぼ書いてダメだと言われましたから。

浅古:あれ森谷さんが自ら引き上げたんじゃ。

森谷:まあそうだけど、ちょっと……。

浅古:私は参院不要論でいこうと思って書いて、最後まで森谷さんが書ききったのに、「これじゃ嫌だ!」って森谷さんが投げ出したんだよ。

森谷:だって、事例の中にコミットメントがないんだもん。コミットメントの議論ができなくて、じゃあちょっとという感じで。

浅古:さもこっちが切ったような言い方(笑)。あれは自分で腹切ったんでしょう。

森谷:だから、Webサポートの原稿って教科書で本当は入れるつもりだったんだけど、最後の最後でボツになったものが多いんですよね。

浅古:結局100ページのうちの80ページくらいは、本当は載せたかったやつなんですよね。

森谷:とにかくボツになるというか、うまく行かない部分が多くて。書き直しの指示がとにかく多かったですよね。お互いがお互いの仕事を増やしている感じがしました。教科書ってこんなものなんですか? 初めて書いたんで、わからないんですけど。

浅古:以前、編集担当の岡山さんに日本政治学会でお会いしたときに、「こういう書き方もあるんですね」と言われた記憶がある。

森谷:ははは(笑)。

浅古:多少意図的なんですけど、私と森谷さんは友達だし、図斎さんともウィスコンシンの後輩ですけど同年齢で友達だし。

図斎:先輩後輩なので、もう私は先輩からのプレッシャーが……

浅古:その言い方だと、ちょっとハラスメントにならないか心配ですけど(笑)。今回は、けっこう同世代で比較的言い合える仲の人にお願いしました。変な話、指導教員級の人と書いたら、「これ削ってください」なんて絶対言えないし。通貨危機で書いてきた人に対して、「これわからないからやめたほうがいいと思う」って気楽に言えないと思うんですよね。

森谷:そうですね。通貨危機のときはたしか、そもそも通貨危機を説明するのに時間がかかるからやめましょうという理由でしたよね。

浅古:それは正しいんだけど、私は時間をかけて書いているので(笑)。たとえば、これが全然知らない人だったり、指導教員だったらたぶん言えない。良し悪しだと思うんですけど、言いあえる雰囲気が最初からありましたよね。だから、共著の教科書だけど、結果として執筆の担当章を明記していない。今言ったように森谷さんが終章書いているし、1、2章を私が書いているし、3、4章を図斎さんが書いているんですけど、お互いものすごく口を挟まれているし、ものすごく書き直されている。だから、執筆担当者はたたき台を出す人というだけで、叩いて揉まれた後は全然違うものになりました。たしか、第1章のサクラエビのプール制を最初に持ってきたのは森谷さんだったし。

森谷:第5章の冒頭の事例で貿易紛争を出したのは私ですけど、シリアの話を出したのは浅古さんですもんね。

浅古:もともと私は参院選を出してたんですけどね。

森谷:まあそうですね(笑)。

浅古すごく境界が曖昧になったのがこの本の特徴で、応用とゲーム理論の理解を両方してほしかったんですよね。それで、私は政治で森谷さんが経営で、図斎さんが進化とともにゲーム理論のしっかりした部分をチェックするという役割分担で言うと、最終的には混ざらざるをえないし、混ざったほうがたぶん良かったんだろうなと。いろいろ思うところはあったと思いますけど。

ゲーム理論の「壁」を乗り越える

森谷:もう1個、事例以外のところで書き直しがあったのは、やっぱり均衡の説明の仕方ですよね。「事後実現的な予想」と「自己拘束的な戦略」。この2つの要素ですべての章の均衡の概念を書き直すというのがけっこうあった気がします。図斎さんと浅古さんがすごい議論してた記憶が。

図斎:きっかけは、東北大に来てから経済学以外の他学部においてゲーム理論を応用されている方々と、学内外でつながったことです。東北大だといろんな分野にゲーム理論を活かす研究者がいるのですが、その方々はもともと経済学での理論家と交流しながらゲーム理論を学んできたので、好意的だし、よく理解されているのですよね。しかし、そこから更に外の分野固有でのゲーム理論の見方にも触れるようになったときに、その中には、深い理解というよりも、均衡概念の誤解から来ているネガティブなものもあることに気づきました。

森谷:ちなみにどんな誤解だったんですか?

図斎:ゲーム理論を応用とか入門レベルで教えるというときによくありがちなんですけど、「経済学やゲーム理論の研究者は均衡、均衡と言うけど、均衡ってそんなに成り立つものなんですか?」という批判です。この均衡への懐疑的批判への応答というのは純粋理論で掘り下げられているところでもあるんですけど、わりとプリミティブな理解にとどまる方たちの中で誤解がけっこうあったりするんですよね。

経済学だとインセンティブに基づいて人々は戦略とか行動を取りますみたいに社会を分析するけども、社会学とか他の社会科学に関してはいろんな人たちがどういうふうに社会のイメージを持っているのかという認識の話にフォーカスするのが多いように思います。社会に対するイメージをどう描いているのか、あるいは社会をどう認識しているのかとか、社会の中での予期・予想の形成に関してけっこう詳しく議論をしています。

それに比べて経済学者の社会分析はとにかくインセンティブみたいな話になっていると思われている。ただ実際はゲーム理論では予期の形成みたいなことを丁寧に考えています。とりわけ理論研究で均衡概念を洗い出しましょうとなると、最初に考えるのはまさに予期の問題なんですよ。人がどう社会を認識していて、そのもとで社会がどう動くかという予期を形成しているのか。

ここのところをうまく入門レベルで見せることができれば、経済学者だけではなくて、もともとモデルとか数理なんかじゃ社会は分析できないと思われているような人たちにもアピールできるんじゃないかと思ったんです。

なので、ナッシュ均衡だとか部分ゲーム完全均衡だとかベイジアン・ナッシュとか、いろんな均衡概念の基礎にそういう話がちゃんとあるわけです。それを明示できれば、社会科学全般の研究者にアピールできるんじゃないかと思いました。

森谷:問題はそうするとちょっとだけ難しくなっちゃうということですよね。今までのゲーム理論の初級の教科書を見ると、インセンティブの議論はやってますけど、基本的に予想のところは難しいからナッシュ均衡を定義するときも触れてない教科書のほうが多いですよね。そのへんを読み手がどういう印象を受けるのかはちょっと不安要因ではあります。

ただ逆にそれをやっているから、第8章の完全ベイジアン均衡を定義しているところで、信念をアップデートするプロセスが明示的に登場しますが、そこにスムーズに入れているように思うんです。だけどやっぱり、最初のほうの章で出てくる「壁」を読者がちゃんと乗り越えてくれるかなという不安はありますよね。ナッシュ均衡を勉強する初期段階でしかもそのタイミングでは理解してもご利益がない段階でこの壁を乗り越えられるかどうか。

浅古:最初に私と図斎さんが議論してたときも、森谷さんがいう最初に「壁」があるという話をしました。けっこうゲーム理論の中級くらいを教えててよくある質問が、鹿狩りゲームとか逢い引きとかになったときに、「なんでこの均衡が実現できるの?」、「なんで間違えないの?」というのは、必ず毎年1人2人の履修者から聞かれています。それは予想の自己実現性にかかわることなんだけど、2つ以上均衡があるとなんでこっちが成立することがわかるのかという点はすごく疑問に思われています。

たぶん一部の教科書とか授業では、そこのところをほんわかとだけ説明して逃げる。そこは突き詰めると大変だから、とりあえずナッシュ均衡では予想は正しい予想ができると仮定しておいて流すと思うんです。私も時間が限られているところでは、それをスルーしちゃうときもあるんですけど、そこにガッツリ入り込むと1回分の授業になってきます。そこはどう伝えていいのかわからなかったです。

ただ、100人いたら80人くらいは気にしない話のような気もするんだけども、気にする10人20人、その子たちはそこで止まるんです。「いやこれは現実的じゃないな」、「こんなの使えないわ」と感じるところだと思うんです。そこでゲーム理論が嫌になってやめるんです。その10人20人はたぶん突き詰めればゲーム理論の本質が見えてくる子たちだから、その子たちもちゃんとそこを理解して進めるようになるには予想の自己実現性をしっかりと考えて理解してもらうのは大事だと思います。それに、この説明を逃げるとできる「壁」はまた別にあるように思います。それをどうしようというのを私はずっと考えていて、最初は仮定でいいやと思っていたんです。そういう仮定として話を進めてくださいという書き方を1章2章で最初書いたんですけど、図斎さんに「それは嫌だ」と言われたんです。そこをもうちょっとちゃんとやりたいと言われて、そこのところを書き直された記憶があります。

図斎:進化動学を入れましょうというときに「調整過程」という話をしたんです。狭義の意味での進化動学というと予期を前面に出していないんですけど、結局やっていることは社会が何か動いていますというときに、それを観察してそれに基づいて人々が戦略をアップデートしていくというプロセスを考えているんですね。そのプロセスというか変遷をたどるという意味で進化動学はゲーム理論の中で自分たちの固有の考え方を持っているんですけど、人々が観察あるいはイメージを持ってそれに基づいて戦略を決めますというのは、実はゲーム理論のわりと本質的な枠組みだろうと捉えています。

特に純粋理論でのゲーム理論の発展というのは、進化動学に限らず、わりと予期の形成という問題を抽象化して哲学的にしつこく考えることから結構来ています。そこを入門レベルでも丁寧にやることは誤解を招かないようにしようということだけじゃなくて、実はゲーム理論の最前線での発展へとゲーム理論脳をつなげていくことになると思っています。

⑤に続く

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