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働き方の文脈で”自由と不自由”を考える

自由とは何か、不自由とは何か?
そんなテーマの投げかけがあったのはいつだったか。
たまに発生する”哲学的問い”に対して、自由な意見を発信することが”僕たち”にはある。StandFMで勝手に話しているに過ぎないが、それがまた非常に面白い。

既に自分なりには語ったが、
ちょうどログミーで読んだ記事から、新たに想起された部分があったので追加で語っていく。(音声よりも図を使いたい)


きっかけとなったログミーの記事 ↓↓

サイボウズの野水さんと、パプアニューギニア海産の武藤さんの対談だ。
2部構成になっているが、できれば両方読んで欲しい。
非常にユニークな取り組みであり、いわゆる働き方改革の形の一つだ。

一応、リンク先を読まない人にも通じるように書いてはいくけど、読んだ方が理解はしやすいはず。


どちらも働き方を改善し生産性を高めようと試みたが、実行したことは逆のように見える

サイボウズは知っている人もいるかもしれない。ちょっと変わったCMで、キントーンというソフトウェアを販売する会社だ。昔は超ブラック企業で離職率がヤバい会社だったが、社長の青野さんを筆頭に「チームのことだけ考えた」という著書があるが、人に目を向けた方針を打ち立て、見事に離職率を低下させた。近年、人事関連では知らない人はいない、有名でオモシロイ会社だ。

「100人100通りの働き方」や「公明正大」が有名で、かなり自由度の高い働き方で生産性を高めている。

逆に、パプアニューギニア海産では、禁止ルールが多い。ただ、その背景や意図は意外にも自由を求めての禁止だということだった。

後半の記事(https://logmi.jp/business/articles/329991)より


自分勝手な自由は誰かの不自由


記事の中ですでに「自由」についても語られている。
完全な自由の中で生きられる人はそう多くない。依存だったり、宗教だったりする話も、確かになと思う部分が多かった。

この本を先ほど購入してみたところです。Amazonから発送が遅れていると連絡あり😭

「消極的自由は個人を孤独にさせ、人々は不安や絶望から逃れるために服従しようとする」。要するに、自由にしたくないのに無理やり「手放しの自由」を与えられると、拠り所がなくなって誰かにすがりたくなる。

後半の記事(https://logmi.jp/business/articles/329991)より

マジで、難しくて考えてみた。
自分の経験に当てはまることは無いだろうか?

私は元理系研究職なので、動物実験も経験がある。
動物実験用のマウスは、尻尾をもって持ち上げるんだが、そのまま宙ぶらりんではとても暴れる。
ただ、どこかにしがみつかせるだけで、落ち着く。

それと同じかな?

いや、それってマウスにとっては自由(安心)なようで、しかし実験者としてはただただ扱いやすい。

しがみつくだけで勝ち得た消極的自由によって、尻尾持たれているという本来の不自由はどうでもよくなる。

うーん、違うかもしれないが、
後述する自由には当てはまるようにも思った。


StandFMでも自由と不自由は隣り合わせにあるといった。
誰かの自由によって他の誰かが不自由になっていることがある。
誰かの自由は、他の誰かにとっては不自由な環境でもある。

志向性も違えば、年齢や立場は人それぞれだ。
人それぞれの快適、幸福、自由がある。


FreedomとLiberty


FreedomとLibertyは”どちらも自由と訳される”が、実は大きく意味が違う。
そう教えてくれたのは”旧おひたちさん”だ。

「freedom」には「持って生まれた自由」という意味があり、「先天的・受動的」な自由を表します。
それに対し「liberty」は、「自ら勝ち取った自由」という意味で、「後天的・能動的」な自由を表します。

「freedom」と「liberty」の 違いとは?自由を表す英語表現 - ネイティブキャンプ英会話ブログ (nativecamp.net)

つまり「自由」にも2つの顔がある。
サイボウズとパプアニューギニア海産の話に戻ってみると、起業として成長(事業推進)のため、どちらの企業も社員が「自由」に働けることを追い求めた結果である。実行したことは真逆なことのように思うが、共に自由を獲得したように見えるのは、求めた「自由」が違っていると考えるとすっきりする。少し図にまとめてみよう。

自由と自由の解釈

左がサイボウズ、右がパプアニューギニア海産の自由。
ただ、パプアニューギニア海産は「自由」を消極的に得たのか?というとそうではないようにも思う。
つまり、右側にはもう少し違う側面があるように思った。

それは、積極的に不自由を排除したように思う。

まぁ、もともと意味合い的に含んでいたものだと思うが、僕の思考の順番なので仕方がない。バリアフリーという言葉があるよね。
脚の不自由な人が歩きやすいように”段差が少ない”とか”スロープ”になっているとか。すでにバリアフリーのフリーには「不自由を排除する」意味が有ったんやなって思った。不自由からの解放のFreeと考える方が解りやすかった。

パプアニューギニア海産の事例でも、
いろいろなことを禁止することにより、トラブルを排除した結果なんだなって。不自由からの解放により勝ち得た快適な職場なんだなって。

サイボウズは「100人100通りの働き方」という自由を与え、従業員一人一人が自由を獲得した中で働くということだ。サイボウズはいい会社だが、実際いろいろな人が働くには難しいというか、かなり”自我”が強くないと働けない印象がある。一人一人が自律し、自発的に仕事を行っていく姿がそこにある。

だが、いろいろな従業員がいる(成長志向/安定志向のような)中で、なんとなく自律/自由を社員に与えることというのは難しい。なぜなら互いの自由を共存させる=Libertyだと、社員同士が衝突する、互いに自由をぶつけ合う可能性があると思ったんだ。
ただ、サイボウズが成立しているのは、採用とマネジメントがしっかりと機能しているから成立しているんだと思う。簡単に書いたけど、それってめちゃくちゃ難しいことなんだよ。



自由/不自由と近い文脈で語られる多様性とその例のLGBTQ

ひろゆきがアベマで話をしたyoutube short動画(公式による切り抜き)だ。

まさにLGBTQ活動家なるものが、LGBTQの自由(Liberty)を勝ち取りに来ているのは変じゃないか?という示唆だと思う。100人100通りのLGBTQの自由を主張するのではなく、LGBTQとそれ以外の人の共存を目指した自由(Free)=多様性を求めた活動じゃないと、衝突は無くならないのではないか?という主張だと思った。

最近だとヴィーガンの人が、KFCの店の前に来て批判する人がアメリカなどで増えているらしい。それに反して、その批判している人の前にあえて立って目の前でフライドチキンをむさぼる”煽り”をしているなんて動画も見かける。

個人の主義主張を他人に押し付ける行為をすると衝突が起こる。
ヴィーガンだけじゃなく動物愛護団体なんかもそうだよね。(もともと動物愛護の過激派がヴィーガンに派生していると見ている)

いろいろ巡り巡った食物連鎖の中に居て、完全に動物の関与を除くことは難しい。だって、動物を殺してはイケないんだとすると、もうお薬も、ワクチンだって打てないってことだから。

少なくとも僕は、その人自身が「動物を食べない」という主義主張は尊重しますが、僕には関係ないことだから、人に強要しない方がいい。
少なくとも僕は、「命を頂いている」とか、動物の犠牲があった上での健康や生活だってことに、感謝しながら食べるよ。

あなたの主張で、僕の楽しみな食事、自由な食事の邪魔をするな。他人の自由を奪う自由、そんな権利はあなたに無い。


言語化されていない(共有されていない)自由は、他人にとっては不自由になる可能性も


もちろん、自由を主張するのは構わない。ただ、「それはあなたの感想ですよね」ではないが、その自由はあなたの身勝手な自由ですよね?と言いたくなるような物もある。

個々人がそれぞれで自由を主張し、人によっては侵害されたと思う人と、そうでない人がいたとしたら、もはやパニックだろ。この人はイケるんや、この人はアカンとか、めんどくさすぎる。

そうすると、たぶん「そうなんだろうな…」という憶測で対応し始めるが、当然間違っている。それがトラブルの原因だろう。無意識による解釈・誤解・曲解(unconscious bias)が生むトラブルについては以前の記事でも触れたと思う。

特に日本では、日本人独自の習慣・慣習により暗黙の了解とされたことが多いように思う。


澤さん(澤円 - Wikipedia)が言ってたんだが、

電車の中で携帯電話でしゃべっている人の声を聞くと、「ちょっと気分が悪いな」「イライラするな」「モヤモヤするな」という方、手を挙げてもらっていいですか。

中略

普通に2人で会話しているのを聞く分には、そんなに気にならないけど、携帯電話だったら、なんなら小声でしゃべっていても気になる人がいると。

なぜかと言うと、「解釈する材料が少なすぎるから」というメカニズムらしいんですよ。つまりしゃべっている側、目の前にいる人の声は聞こえるんだけど、向こう側の人がしゃべっている声は聞こえないんですね。

トラブルや怒りの元になる「誤った解釈」はなぜ生まれる? 澤円氏が説く、正解のない問いに向き合える人の思考法 - ログミーBiz (logmi.jp)

まさに、同じことを話ていて、おもしろかった。
(リンク先のログミーには他の例も登場していますので是非参照ください)

そう、主張するLibertyの自由には「勝手に解釈される」という余地が残っている。衝突しないようにコントロールされた自由が必要だというのは、僕らのスタエフ(誰だったかは覚えていないが)でも触れていたと思う。
だとすれば、もしかすると障害を取り除くFreeを求めたパプアニューギニア海産の働き方の方が、万人に適応しやすい(真似しやすい)方法だなと思った。

もちろん”どっちがいい”を言いたいわけではないが、
LibertyとFreeを意識して”自分のあり方”を主張した方が良いだろうということだ。


ネガティブな結果は報告されない


全く同じとは言い切れないが、似たような事例が他にもある。
左右に分かれた自由について、こういう捉え方もできるのではないか?という提案だ。

世の中、成功事例にフォーカスを当てることがある。成功事例から学び、さらなる成功につなげていくことが重要である。それが左側にある自由だとすると、

野中幾次郎がまとめた「失敗の本質」のように、ネガティブな事例を振り返るという点が今のビジネスシーンには足りないという警鐘にも似ていると感じた。

これは、理系の研究者の分野でも同じで、
輝かしい研究成果というのは、無数の失敗の上に成り立っている。ただ、失敗事例を報告した論文はほとんどない。失敗から学ぶことの重要性が語られていながら、失敗事例が人の役に立ってはいないのも現実にある。

今回の件でも、自由/不自由という切り口だけでなく
反面にある、相対するものに目を向けて物事に取り組むことが
重要なのかもしれない。


最後に


この記事の内容について、昼休みに職場のホワイトボードで、
職場の同僚でもある妻と話し合ったのがコチラだ。

職場の昼休みに妻とのディスカッションで使ったホワイトボード

字の汚さは置いといてくれ。
二人で良いディスカッションが出来たと満足したと同時に、家にホワイトボードが欲しいということになった。

ホワイトボードの左側にあるように、自由に関しての考え方にも偏りがあるのではないかという話になった。


本能の偏りタイプの図

上下が外向・内向、左右に抽象・具体といった指向性が反映されている。
僕は「法則」、妻が「注目」なのだが、今回の自由について、青のクロスの人はどちらかというとFreedomの方を好むように感じたが、これはまだ偏った意見だ。ただ、「広める方向性」と「深める方向性」から考えると、そうなのかもしれない。

ただ、何かと”対立”、"相対"する物事の視点というのは重要であろう。
そしてそれは、必ずしも”二項対立”にはならないということ。アメリカの政治でも、保守派とリベラル派に分かれるが、今回はリベラル派の中にも2つあるという話のようにも思う。そしておそらく、保守の中にも自由を得ようという主張があるはずだ。


自由を求めるか、不自由を排除するか、
職場、組織、家族といった様々な集団の中で、それぞれ考えてみてはどうだろうか。僕も、この自由と自由について事例があれば今後も発信していきたいと思う。

それでは!

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