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選び方

幼稚園生。幼稚園に行って歌を歌ったり図画工作をしたり、校庭で駆け回った。与えられたものを消化すれば褒められた。
小学生。幼稚園生に比べ与えられるものが圧倒的に増える。それでも消化しきればやはり褒められる。
中学生。少しずつ思考が自律的になる。わからなければ自分で調べられるようになる。
高校生。必要な情報量が拡大する。調べきれない選択肢ではない。自分で調べる。与えられたものを消化するだけでは足らずプラスアルファがなければ抜きん出ることはない。
大学生。ただひたすらに自由。高校から何も考えずに上がるとあまりの自由さに躓く。与えられたものを消化することは大して役立たない。むしろ自分で何かをしなくてはならない。

年齢が増すにつれて触れられる情報が増えていく。もちろん幼少期から大人と同じだけの情報量に触れることは可能だが、目の前の世界では役に立たない。いつでも年代ごとに新しい世界が用意されていた。でもそれも高校生までだったように思う。大人(ここでは学生のその先の意味)になれば世界は用意されない。正直大学生はその中間にいる気がしている。大人になるとオープンな世界になっていて全ての中から自分の選択をしなければならない。そう、文字通り全て。夥しいほどの可能性、チャンス、選択肢から自分で選ばなければならない。怖い。就活生を見ていて思った。何が怖いかって?間違えた選択をしてしまわないかが。ずっと前から気づいていたことだが自分は本当に臆病だ。だから一年生から間違った世界に踏み込まない為にインターンを始めた。将来より良い選択をする為に。その結果わかったことはあまりに世界は広すぎるということだった。

大学進学の際、海外の大学を視野に入れた人はどのくらいいるだろうか。これは進学した先で留学をするという意味ではなくて、そもそも日本以外の国の大学に進むという意味だ。少なくとも自分は、海外の大学は留学でいくものであって、大学生活全部をそこで過ごすという対象ではなかった。つまり進学の選択肢としてもっていなかった。それでも高三のクラスに1人はいたし、ましてやSNS上を探せばごまんといる。用意されていた世界でもこれだ。
オープンな世界になったらどうなってしまうのだろうか。ほぼ無限に思える選択肢から自分の望むような選択ができるだろうか。はっきり言って自信がない。もちろん大学二年間を無駄に過ごしてきたつもりはないし、今の状態でも相対的にこの選択肢よりはこっちの方がいいなと選ぶことはできる。しかし、絶対的にこれだ!と思える選択がしたい。そう思っていた。

人生は相対的な選択の連続

今思えば結果的に正解だった選択肢も、決断する段階ではビビッときていたわけではなかった。どこの中学に進むか、大学はどこを受けるか、入ったら何をするか。もちろんもっと小さな選択もそうだ。この動画を見ようかそれともあっちか、もう寝ようか、あと1時間何かしようか、この問題はマルかバツか。
人は1日に何回も何回も選択・決断する。大きな決断も小さなものも「これにしよう」と最後は選ぶわけだが、根拠や理由として「なんとなく良さそうだったから」はよくあることだと思う。というより大半がそうかもしれない。ただ、意識はしていないけど必ず頭に”あっちより”や”〇〇より”がついている。つまり相対的に選んでいるのだ。もちろん相対的であるがゆえに必ず自分にとって正解であるわけではない。(テストのマルバツには正解はある。)

こうやって考えると一年生の頃の自分の選択がよくわかる。とりあえず行動してみた。行動することがいいことだと思う。ここに付け加えるならば”何もしないよりは”だ。行けばいい。やればいい。何か変わる。それでもその決断も相対的だから良い方に転ぶか悪い方に転ぶかわからない。それでも必ず世界がちょっとだけ広くなる。選択肢が増える。ベターな答えに近づく。
オープンな世界に入った時、何回決断し直せるだろうか。その結果、楽しかったり辛かったりするから、何かが起こるから面白いんだと思う。選んで間違えてひっくり返してまた選んで。それでもいいよね、”何もしないよりは”

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