ある時「火はどうしてあついの?」と聞かれた

先日、フリースクールミズタマリに通う
男の子の誕生日があった。

ろうそくの灯を見て彼は言った。

「火はどうしてあついの?」

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僕は普段、子ども達と一緒にいることが多い。

中高生向けの学習支援教室、
小中学生向けのフリースクール、
小中高生向けの家庭訪問、
高校生向けの居場所、

週5~7でそれぞれ別の子ども達と
ともに時間を過ごす。

基本的に僕は
「支援する」という言葉が
あまり好きではない。

他の人が使う分には構わないし
便宜上、自分の活動の紹介のために
使うときもある。

だが「支援する」という言葉とは違い
僕ら自身が「学ぶ」ことが多いし
僕ら自身が「元気をもらう」ことが多い。

それに「支援する」という言葉には
上下関係を感じてしまうし
どこかクールさすら思うこともある。

ただこのクールさは
仕事柄必要なことではある。
感情のやり取りだけで
それぞれの未来をともに
切り開いていくことは難しいから。

感情さえあれば
子ども達の抱える生きづらさに
向き合うことはできるかもしれない。

うんうん、と相槌を打ちながら
時には笑いながら、時には涙しながら
話を聴くことはできるかもしれない。

でもそこから先へは進めない。

この仕事にはクールさも必要だ。
物事を俯瞰して捉え
一人ひとりの持つ資源を把握し
それを使って、どうその環境で
彼らの生きやすい未来をつくっていくのか。

Cool head, Warm heart
(冷静な頭と、熱い心)だ。

もっともっと必要なことはたくさんあるが
いつの間にか話がずれてきてしまったので
元に戻す。

先ほど

だが「支援する」という言葉とは違い
僕自身が「学ぶ」ことが多いし
僕自身が「元気をもらう」ことが多い。

と話したと思う。

「火はどうしてあついの?」

僕らにとって
この子どもからの問いも
よい「学び」になった。

この質問に僕は答えられなかった。
一緒にいたスタッフも答えられなかった。

子ども達もその子の心に呼応するように
「どうして?」「なんでだろう?」と
なっていった。

その時、ミズタマリは
不思議感でいっぱいになっていた。

さて、どうしたものか、と思い
考える。

質問に答えようにも
そもそも答えることができない。

調べることは簡単だと思った。
調べれば出てくる。

やっぱりいつもの答えにたどり着く。

まず伝える。

「うわ、なんでだろう…わかんないや」

僕ら大人にもわからないことがある
ということを素直に伝える。

僕らはカッコつけなくていい。
大人だって同じ人間だ。
君たちと一緒で知らないことだらけだ。

僕らは恥ずかしがらずに
わからないことはわからないと言っていい。
むしろそうした方がいい。

無知は恥ずべきことではない。
自分が無知であることを知ることから
学びはスタートするからだ。

そして言った。

「どうしてあついと思う?」
「一緒に考えようよ」

一緒に考えることが大事。
もし今回答えがわかっていても
絶対に教えることはしなかった。

僕らが知る答えを
そのまま教えることは簡単だ。

その場で伝えることで
時間の短縮にはなるし
子どもの「へ~」には
つながるかもしれない。
でもその瞬間だけかもしれない。
子ども達の「なんで?」には
たくさんの学びのチャンスが
あるのに、それを潰してしまうかもしれない。

「なんでだろうね?」と問うことは
覚悟がいることだ。

その場で答えを即答することで
30秒で終わるその会話が
5分になるかもしれない。
もしその子が研究熱心な子であれば
その後、深堀って30分になるかもしれない。
もしかしたら次の日に持ち越されることも。

でもその時間がとても大切なのだと思う。
今つくるその時間が彼らの将来に
大きく響くのだと思う。

そしてこうも思った。

その時間をつくるのを
家庭に任せるだけでは
いけないのではないかと。

だって、毎日子どもたちと
一緒に過ごしていたら?

子ども達のために炊事洗濯、遊び学びを
毎日のように一緒にしていたら
その時間をつくることは難しくなってくる。

毎日何十回ととんでくる
「なんで?」に「なんでだろうね?」と
毎回返せる自信は僕にはない。

だが、今までの社会は
それをすべて家庭に背負わせ
何か問題が起きると
「家庭での教育が悪い」と
言ってきたのだと思う。

自分に子どもができたときのことを
考えると怖くて仕方ない。

やろうと努力はすると思う。
でも余裕がないこともあると思う。
むしろやろうと思っているのに
余裕がなくてできない
そんな自分に気付いた時には
自分を責めることすら
してしまうかもしれない。

そんな時、親ではない誰かが
その役目を担ってくれたら…?
「一緒にやりましょう」と
手を差し伸べてくれたら?

こんなにも嬉しいことはないと思う。
子どもを一緒に育ててくれる
見守ってくれる誰かがいてくれたら
どんなに救われた気持ちになることか。

この社会には、家庭だけでない
居場所や人の存在が必要なんだ。

顔見知りの地域のおじちゃんおばちゃんが
声をかけてくれたら。
フリーで通えるスペースがあって
年の近いお兄ちゃんお姉ちゃんがいて
いつでも遊んでくれたら。

一緒に遊んでくれる
一緒に学んでくれる誰かが
家庭の外にもいたら。

そんな社会のほうが
安心して子どもを育てられるし
子ども達は、すくすくと成長し
人とのつながりを感じ
安心して挑戦できるように
なるのではないかと思う。

ああ、また長くなってしまった。
明日はミズタマリのスタッフと
打合せの日。

目の前のことだけじゃなく
もっと先の未来のことも見据えて
丁寧に時間をつむぎたい。

最後まで読んでいただき
ありがとうございました。

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