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職業「VTuber」と風俗嬢の共通点

はじめに

2018年からVTuberとして活動しているのですが、企業からデビューしたので最初から「仕事」という認識で取り組んできました。
ただ、この「仕事」は今までやってきたものや、一般的なパートタイムとはナニかが違うような気がするし、ナニかが同じような気もする・・・。(とりあえず物理性器をしゃぶっていないというのは間違いない)
とぼんやり考えながら走ってきた4年でした。
ですが、性風俗世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ――SM・関係性・「自己」がつむぐもの(著)熊田陽子を読んでからフワフワしていたものがドンドン腑に落ちてきてとても楽しかったので、記録として残しておこうと思います。
このnoteでも何度か触れているように「VTuber」という言葉自体、様々なイメージや定義があり、そのなかでさらに人数が限られてくる「職業VTuber」はより個人差の大きいものになると思うので、今回書くことは「由宇霧がVTuberという活動で生活していくなかで感じたこと」でしかないということ、同じように風俗嬢といっても人によって向き合い方が様々なのでこれも「由宇霧が風俗店で働くなかで感じたこと」でしかないことをご理解いただける人のみ読み進めてください。
また、引用のなかではお客様のことを「客」と呼んだりちょっと冷たい印象を与えてしまうことも多いのですが、本や引用の性質上そうなってしまうことを御赦しください。


性風俗世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ――SM・関係性・「自己」がつむぐもの(著)熊田陽子

あるときカナダのコールガールの講演を聞く機会があり、性風俗世界で生きる女性たちに興味を抱くようになった著者は、論文執筆のために某都市のSMサービスを提供するデリバリーヘルスにスタッフの仕事を得て、フィールドワークを開始した。
結果、43人のおんなのこたちから調査の確約を得て、おんなのこたちとの交流を深める。性的なサービスを提供する女性たちは、いったいどのような思いで、その仕事を選び、日々を過ごしているのか。
彼女たちと日常をともにしながら、彼女たちの生存戦略を描き出した意欲作。

amazonの紹介文

熊田先生がフィールドワークとして働いていた店を「Y店」、
そこで働く女性達のことは在籍歴や年齢関係なく「おんなのこ」と表現しています。

VTuberによる発信は「遊び」と捉えられる

「仕事」と言いながらも、なにか食品を製造しているわけでもレジを打っているわけでもない。いったい自分の「仕事」とはなんなのか。とりあえず近い業界の「芸能界」に置き換えて理解した気になっていたけれどそもそも芸能界もきちんと自分の言葉で解説できるほど理解できているかといったら怪しいのです。
そんなとき、このページに出会いました。

Y店のプレイをどう捉えるべきか―――人類学による性行為研究から

(前略)人々は単に子孫を残すためだけに性行為を行うのではない。性行為には、それ自体を楽しむという「遊び」の側面が大きいのだ。人間の本質の一つに「遊び」があると考えたヨハン・ホイジンガ(J.Huizinga)は、人間は「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」であると主張した[Huizinga 1938=1937]。人は、常に目的達成に邁進していきているわけではなく、「おもしろさ」そのものを楽しむという性質を持っている。そのような、生命の維持に向けた直接の必要を超えて、人々の生活に意味を添える何かが作用している状態、それがホイジンガのいう「遊び」なのである。
 ならば、「遊び」という側面は、生殖に結びつく性行為よりも、そうでない性行為の方により強くあらわれているといえないだろうか。確かに、生殖に帰結する性行為でも、その過程には「遊び」を伴う。しかし生殖が義務化したとき、それは目的を達成するための手段としての性格を帯びる。それに対して、生殖を一切念頭に置かない性行為は、純粋な「遊び」となりうるからだ。そこで本書では、Y店の性行為を「遊び」と捉え、「おんなのこ」が客とどのように関係を作るのかという問題を、「遊び」とはなにかという問いをめぐって検討していきたい。

性風俗世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ――SM・関係性・「自己」がつむぐもの
(著)熊田陽子p52

これはまず、元風俗嬢として「そうだったのか!!」と思うのと同時に現役職業VTuberとしても「そうだったのか!!!」と膝を叩いた。
恋人や妻が居ながらお店に来てくれたお客様たちの行動にも改めて合点がいった。わっち自身は恋人や結婚相手が風俗店に遊びに行くのは「大いにアリ、ただし自分と交わる前に感染症の検査に行ってくれよな!」派なのですが、それは風俗店で勤務していたり、セフレと過ごしたからこそ性行為は全て愛とか恋に結びつくものではなく「遊び」としても存在しうると感覚的にわかっていたからなのだと再確認できた。
 また、職業VTuberとしても”人は、常に目的達成に邁進していきているわけではなく、「おもしろさ」そのものを楽しむという性質を持っている。そのような、生命の維持に向けた直接の必要を超えて、人々の生活に意味を添える何かが作用している状態、それがホイジンガのいう「遊び」なのである。”という記述にすごく居場所を感じた。別に由宇霧の発信がなくても世の中には専門家による性教育のコンテンツで溢れているし、収入の過半数を占める生配信や会員限定配信では有益な情報よりも一緒に過ごすことが中心なので、それ自体は生命の維持には直接作用しない。だけど、その必要を超えて何かが作用することはたしかにあるし、それには「遊び」という在り処があるとも考えられる。人間の本質の一つに「遊び」があるからこそ、これは仕事になりうるのだと合点がいった。

わっちの提供してきた、している仕事は「遊び」だったのだ!
だけど、そこで少し立ち止まる。
提供しているのは「遊び」だけど、自分自身にとっては「仕事」。
「インターネットで人とコミュニケーションをとる」という遊びと捉えられる行為はお互いにしている。だけど一方は遊びで、一方は仕事・・・・これの違いって?そもそもそんなに割り切れるものか?割り切りにくいがゆえに由宇霧は今まで「休み方」に悩んできたのではないか?あれ?これなんの話?と混乱してきたころにこんな記述があった。

「おんなのこ」と客の共同で成立する「遊び」

(前略)「おんなのこ」は「本来の」SMと店でのSMを分けて考え、仕事としての後者については、客に合わせ、喜ばせることを第一に考えていた。しかし、プレイを「遊び」と捉えているのは客だけであり、それを仕事と考える「おんなのこ」にとって、プレイに「遊び」の要素が(ほとんど)ないと考えるべきではない。なぜなら、「おんなのこ」としての仕事を全うするためには、彼女たち自身も、客と一緒にプレイを「遊び」として成立させ、維持する必要があるからだ。
 文化人類学者のグレゴリー・ベイトソン(G.Bateson)は、遊びplayに関する検討の中で、じゃれ合う2匹の子ザルを例に挙げつつ、こんなことを指摘している。それは、遊びとは、「これは遊びなのである」というメタ・メッセージを交換できない動物の間では起こり得ない現象だ、というものだ。子ザルがじゃれあう家庭で交換するシグナルや行為は、闘いにおけるそれと似ているが異なる相互作用であることは、観察者である人間にさえ明白である。人間から見ても、子ザルがしているのは「咬みつきっこ」であって、闘いにおける「噛みつき」とは明らかに違う[Bateson 1972=2000:261-262]。「闘いっぽいけれど闘いではない」行為やシグナルの送り合いを通じて、それが咬みつきっこであることを確認しつつ遊ぶ子ザル。このベイトソンの指摘を踏まえて改めて「おんなのこ」について考えてみると、二つの意味において、彼女たちにとってもプレイは「遊び」であり、かつ、そうではならないものであることがわかる。そして「遊び」とは「おんなのこ」からの一方的な働きかけではなく、客と共に進行される・すべきものであることもわかる。

性風俗世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ――SM・関係性・「自己」がつむぐもの
(著)熊田陽子p65

これはぜひ、本を読んでいただきたいのですが、
「おんなのこ」は「本来の」SMと店でのSMを分けて考え、仕事としての後者については、客に合わせ、喜ばせることを第一に考えていた。という部分について具体的に書いているページは凄く面白いし職業VTuberと重なる点がありました。
もちろん個人差もグラデーションもあるとは思うけど、プライベートでやるゲームや通話と、配信でやるゲームやトークは違うものだし、配信でやる以上はリスナーが喜ぶように配慮もする。
だけど、風俗嬢と職業VTuberには異なる点もある。
まず風俗嬢時代は財布から料金を支払った人にのみサービスするのに対して、職業VTuberになってからは直接的には料金を支払っていない人の前にも立っている。収益化をしているチャンネルであれば、たしかに視聴する事で広告収入の一助になっているので全くゼロ円というわけではないけれど、個人の財布から出てくるお賃金とスポンサーの広告を視聴するという稼働によるお賃金が全く同じ・・・とは個人的には言い難い(特殊なチャンネルゆえにあまり広告料を受け取っていないせいかもしれない)。
この特性の違いに気づいてからは、1時間のライブ配信のなかで「交換」と「贈与」と「対等な人間関係」を瞬時にざっくり切り替えるようにしている。

由宇霧が実践している「交換」「贈与」「対等な人間関係」

交換

まず「交換」はわかりやすくて、生配信中にスーパーチャット(投げ銭)をつかって性の悩み相談や質問が投げられた場合は丁寧に返答する。これは「投げ銭」と「由宇霧の時間」を等価と感じる分だけ交換している認識です。質問がなく応援の意味でいただく投げ銭も、今後も活動し続けるための資金として交換と考えられます。また、配信を視聴する時間を割くという行為自体にも応援やYouTubeのアルゴリズムに協力するという面があるのでそれに応えて活動を続けるという交換が発生しています。ただし、由宇霧の場合は現状のチャンネルの状況を総合的に判断した場合、まだ視聴のみでは質問に答えることが等価になりずらいので基本的に無料の質問は過去の動画を紹介したり、悩みに合う本を紹介することで交換を成立させています。

贈与

「贈与」は無料のチャットで避妊の失敗などについて相談が寄せられた時に発動します。特に未成年はお金がなくて避妊がおろそかになってしまうこともあります。そういう場合は等価交換なんて言っていられません。命に関わること、妊娠に関わることは社会の一員としてできる限り丁寧に語り合います。また、災害時などは安全のためにスーパーチャットをオフにしてプレミア公開をすることもあるのですが、これも収益と関係なくなにか元気付けたいという思いでアクションをプレゼントしたいという感情があります。
また、視聴者からも今後の活動や時間を求めるわけではない贈与があることもあります。

対等な人間関係

「対等な人間関係」は少し特殊で、風俗嬢時代と違って時間に対して等価を支払っていない人の前にも立つというVTuberの特性上、働きかけてもらった分とは見合わない負担が発生することがあります。具体的には求めていないアドバイスや乱暴な言葉などです。風俗嬢として向き合っている場合は相手の楽しい気持ちを損ねないように様々な工夫をしながら自分の心や体を守ろうとするのですが、職業VTuberとしてはその視聴者さんが今までどれぐらい由宇霧に対して支援をしてくれたかにもよりますが、以前より3~5テンポぐらい早く注意やNGを出すようにしています。サービスに見合う対価を支払っていない場合はお客様ではなく対等な人間同士なのでほとんどサービスはせずに自分の心だけを守ります。
ただ、由宇霧を支援してくれている「おゆかり様」こそ、交換や贈与よりも「対等な人間関係」を望んでくれている方が多いので、単に質問がしたいとか生配信の投げ銭時に発生するギミックが見たいという方以外には素直にお話するようにしています。(有料配信のニコニコチャンネルが気を遣わなすぎる無法地帯になっているのはそのせいです
ちなみに、表向きには質問をしているように見えたりギミックを楽しんでいるように見える投げ銭の中にも単純な交換ではなく贈与の意味も込められていることもちゃんと感じています。
由宇霧ちゃんねるの生配信はコアなおゆかり様がメインの喫茶店規模な配信なので、以前は東京ドーム規模の配信者さんと比べて「数字」がコンプレックスになっていたのですが、考え方を改めてからはこうやって一人一人の状況や温度を感じながらコミュニケーションが取れるのは魅力だなと思っています。喫茶店にも東京ドームにもそれぞれの難しさ、楽しさがあるはずです。

こんなかんじで、わっち自身がこの本を読んで感じたことを記録するために書き出したのですが、こんなことを書いてしまってはこの活動が粋か粋じゃないかと言われた時、完全に粋ではないですね。
でもまぁ、こんなYouTubeとはかなり距離があるnoteまでわざわざ指を運んでくれたということは立派な「おゆかり様」だと思うので対等な人間関係で素直にいま実践していることを見せちゃっても良いかなと思って書いています。いやな気持になったのならごめんなさい。これは別の世界線の話だと思って忘れてくれ。

いや、だけどまだ粋な活動でいられる可能性が残されてるぞ!
と思えたのが次の記述。

「遊び」と「本気」の境界線を「遊ぶ」

他方、「おんなのこ」と客の関係で興味深いのは、明確に「遊びだよ」というメッセージを出さない、あるいはぼかすことも、「遊び」の重要な側面としてある点だ。先ほどベイトソン[1972=2000]による指摘――「これは遊びだ」というメタ・メッセージの交換がない遊びは成立しない――を紹介したが、彼はもう一つ、遊びについて大切な指摘を行っている。それは、「遊びの中で交換されるメッセージないしシグナルは、ある意味で正しくない、あるいはそのままを意味していない」(こちらがすでに述べたこと)と同時に、「これらのシグナルは、現実に存在しないものを指し示す」というものだ[ベイトソン 1972=2000:265]。つまり、子ザルの「咬みつきっこ」は「噛みつき」とは異なるが、「噛みつき」を指し示してはいる、ということだ。確かに、「噛みつき」を指し示さなければ「咬みつきっこ」という遊びが成立しないことは明白である。
 小田亮[2000]はこのベイトソンの指摘を念頭に置きながら、人々のコミュニケーションにおいては、常に、「これは遊びだよ」というメタ・メッセージが明らかに示されるわけではないこと、そして、その不明瞭さこそが、遊びの醍醐味になりうることを示唆している。

性風俗世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ――SM・関係性・「自己」がつむぐもの
(著)熊田陽子p71

ということです!
由宇霧が普段実践していることを明かしたところで、すべてが「交換」「贈与」「対等な人間関係」「仕事」「遊び」にはっきり分かれるわけではないし、それも遊びの醍醐味なのです。それは次以降の記述からも風俗嬢と職業VTuberの共通点として浮かび上がってきます。

ゲームという側面

客にとっての「遊び」は、「おんなのこ」にとって「遊ばせる」という仕事であったが、仕事であることをできるだけかくして一緒に楽しく「遊ぶ」こと、そして時に「遊び」と「本気」の境界を「遊ぶ」ことを「おんなのこ」は行っていた。本章では、引き続き客との「遊び」を素材の一部としながらも、「おんなのこ」という集団に焦点をあてることから検討を始めたい。個人として客に「遊び」をさせるという仕事は、「おんなのこ」同士の関係になると、客を(あるいはお金を)どれだけ獲得するかというゲームとしての側面を持つようになる。
 ここで「ゲーム」ということばが登場したので、少し説明を加えておこう。ゲームと遊びは重なるところも多いが完全に同じではない。中川敏は、ゲームとは恣意的に作られた意味の体系であると説明する。――中略しますがめっちゃおもしろいので本読んで!――他方、遊びは必ずしもルールを必要としない。鬼ごっこや缶蹴りなどルールを持つ遊びもたくさんあるが、つまらない授業で講師の顔を見ながら落書きするのも遊びといえなくもない。そんな落書きに、「こう書かなくてはならない」などというルールはない。また、ほとんどの競争はゲームとなりうるが、落書きを例にとってみても、遊びは競争がなくても成立する。

性風俗世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ――SM・関係性・「自己」がつむぐもの(著)熊田陽子p76

ここで初登場する「ゲーム」という側面に首がもげるほど共感しました。そうなんだよ、風俗嬢時代も職業VTuberな今も仕事だから味気ないとか楽しくないとかそんなことはなくて、ルールややるべきことや結果があるからこそ人を熱狂させるパワーを発揮したり楽しいことも世の中ありますよね!ってことです。そしてこのゲームはプロ野球のようにShowとして見せる場合もあれば、草野球のようにゲームをすることで楽しむ場合もある。これは、先日 #特化Vの会 第二回でスパイクさんが指摘してくれた部分とも重なります。

ゲームとして数字を見る事を楽しむこともできる。由宇霧的には「数字=自分の価値」と思ってしまうと病むので、数字は数字で「コンテンツや見せ方の結果」と受け止めて現状より増やしたいのであれば増やすためにどんな施策をしていくのかに目を向けた方が病みにくいのかもしれないねという話をしました。Vさんにも色々なスタンスの人がいるので、遊びとして楽しんでいる人もいればゲームに参加して楽しんでる人もいるし、仕事にして楽しんでいる人もいる・・・ということなのですかね。そしてそれぞれはパックリ分かれているわかではなくグラデーションになっているし日によって変わることもあるし、由宇霧にいたってはアカウントを分けて気持ちの整理をつけている。
本著での話はまだまだ続き、p80以降ではY店で働く4人の「おんなのこ」を見つめていきます。「おんなのこ」によって働く理由や仕事上のこだわり、お客様との関係性が違うという姿が浮かび上がってきます。

同じゲームなのに差異が生まれるのはなぜ?

著者が抱いた競争としてのゲームの疑問

疑問とは、次のようなことであった。「おんなのこ」は客に合わせて客を「遊ばせる」ことで日常を過ごす(第3章)。しかし客に合わせている限り、客が希望を伝えて行われるプレイ内容は誰が対応してもほぼ同一ということになる。ならば、他の「おんなのこ」に抜きんでて、できるだけ多くの客を獲得するという、いわば競争が成立することは困難ではないか。そのような状況において客は、容姿の違い以外に、どうやってほかでもない特定の「おんなのこ」に執着しうるのか。これは換言すれは、「おんなのこ」は他の「おんなのこ」との差異をいかにして作り出し、そこに意味が付与される(されるよう仕向ける)のだろうか、という問いにもなる。
 少なくとも本章で取り上げたそれぞれの「おんなのこ」の事例から考えると、差異が生じるにあたってのポイントは、「おんなのこ」がまずゲームに対してどのような意識や姿勢を持っているか、そして具体的にどのような行為を取るか(人にとっては戦略を取るか)という点にあるのではないか。たとえば野球を想定してみたい。同じルールのもとプレイされる野球でも、プロ選手と草野球の選手では、試合に対する意識が大いに異なる可能性が高いし、たとえば同じプロ野球の選手であっても価値に向けた行為の具体的内容と戦略は多様であろう。同様に「おんなのこ」も、みな仕事(プレイ)をしてお金をもらうことは共通して行っているが、仕事(プレイ)に対する意識とやり方は異なるため、そこから差が生まれてくる可能性がある。

性風俗世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ――SM・関係性・「自己」がつむぐもの(著)熊田陽子p124


これはぜひ4人の「おんなのこ」の取材ページをじっくり読んでいただきたいのですが、仕事(プレイ)に対する意識を持つ以前の生活環境や価値観によって意識やプレイ内容が変わっていることがわかるのです。
以前在籍していた店舗の慣習で完璧を追求する優子さん、Y店での経験により変わり続けることを選んだ桃さん、自己表現のために実験として勤務して売り上げは二の次なカノ子さん、淡々と働き同郷の男性にほとんどの売り上げを渡して行く末を見るのをたのしんでいるヒカルさん。
熊田先生はそれぞれの差が際立つポイントとして「過剰性」を挙げている。この本で使用する過剰性あるいは過剰ということばに、良し悪しの判断は一切関係がありません。別の「おんなのこ」との間でも少なからず共有される意識が、突出した強度(あるいは弱度)で保たれ実践されるという意味で「過剰」という表現を使っているそうです。
優子さんは過剰に完璧あろうとし、桃さんは過剰に変わろうとしていて、お客様はこのような差異が生み出した意味に惹かれて指名をするのではないかと熊田先生は記しています。あとは持って生まれた体系、声、肌質の好みも人によって様々だからね(整形したり痩せることもあるけど)。人それぞれ色んなところに表れる差異に惹かれるんだよね。わかるわかる。
また、本の中で語られるエピソードの中にはお客様からメールがこないことで、「自分がなにか悪い事をしたのだろうか」と心から不安に思う「おんなのこ」優子さんの姿も描かれています。
このように真剣にお客様に視線を注ぎ続けるのは本人の性格に加えて、満足できる対応をしてお客様と関係が築けたときの喜びと充足感を熟知しているからではないだろうか?という推測を読んで「そうなんです!!」と叫びました。これは風俗嬢としても職業VTuberとしても本当に同じ。
風俗嬢という仕事はただの「合理的な売り上げ獲得ゲーム」の枠組みだけでは決して補足しきれない広がりがあり、この緻密さがあって初めて手に入れられる経験こそが、優子さんにとっての真剣な「遊び」であり、彼女がゲームを続ける大きな理由の一つなのではないだろうか、とまとめておりここでも「そうなんです!!」と叫びました。これも風俗嬢、職業VTuberとして感じた気持ち。ほかの「おんなのこ」たちのありかたも凄く勉強になるので読んでみてね。

差異によって個が成立し、差異によってつながる

ゲームという「遊び」に参加する「おんなのこ」の間でいかにして差が生まれるのかに注目しながら検討を重ねた結果、当初の前提であった「客をできるだけ多く獲得する」というゲームの目的だけでは補足できない広がりを持った「おんなのこ」の経験が過剰性を生み、それが「おんなのこ」個人の個性として結実していく可能性を指摘した。さらに、「おんなのこ」は個々のやり方でゲームを進めるなかで、自分なりの「遊び」を行っているという可能性についても言及した。
 最後に指摘しておきたいことがある。多くの客を獲得するというゲームは、一見すると勝負ばかりに目が行きがちであり、「おんなのこ」同士の分断に帰結するように感じられるかもしれない。しかしゲームに不可避に介在する差異の生成は、分断とは逆の効果を持つ。ことばは言語の体系の中でしか、あるいは関係の中でしか意味がないという議論がある。「日本人」という語は、それだけでは意味をなさず、たとえば「中国人」「オランダ人」との対比においてしか成立しない。人間がみな「日本人」だとしたら「日本人」と名付ける意味はないからだ。さらに「〇〇人」は、人間のカテゴリーの集まりとして、たとえば他の動植物のカテゴリーの集まりと比較することで意味を持ちうるのだ(再び、生き物がみな人間だったら「〇〇人」と呼ぶ理由はない)。つまり言語体系では、差異があって初めて関係がつくられている。これと同様に「おんなのこ」も、差異があるからこそ「優子」さんは「優子さん」として意味を持つといえる。他の「おんなのこ」との差があって初めて、彼女は個として成立するからだ(差がなかったらみな「優子さん」であり、そうなったら「優子さん」という存在はなくなる)。こうした理由から差異があるからこそ、「おんなのこ」個人が個人として成り立つのであり、差異こそが「おんなのこ」をむしろつないでいるともいえるだろう。

性風俗世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ――SM・関係性・「自己」がつむぐもの(著)熊田陽子p133

この文章で4章は締めくくられていた。
このあと

第5章 「笑い」がつむぐ
第6章 都市に生きるということ――性風俗世界における部分的「自己」の切断と接合をめぐって
第7章 そして、「おんなのこ」になる
エピローグ
補論 風営法にみる適法化をめぐる諸問題――性風俗世界という視点に向けて
あとがき

と続くのですが、全部面白かったので気になる人はこちらからご購入ください!(アフィリエイトリンクになっているのでここから買うと由宇霧に紹介料がチャリンチャリンだぞう!)

「遊ぶ」ことを認めた4年生後期の由宇霧

出発点が企業VTuberだったことも手伝って、由宇霧としての活動は全て「仕事」として認識していたため「楽しむ」「遊ぶ」という意識は欠如しているような気になっていた。それゆえに、活動について考え続けてしまう状況を「仕事し続けてしまっている」と感じて悩むこともあった。
だけど、こうやって今までやってきた仕事や今やっている活動をあらためて考えると「遊び」というキーワードが浮かび上がってきた。
やってきた事は変わっていないのに、考えを変えるだけで仕事から遊びに変わっちゃうんだから面白い。
実はこの文章は「休日」と定めた日に書いている。
今の由宇霧にとって、このブログは完全に「遊び」なのです。
書くことが楽しいから書いている、ただそれだけでnoteに向き合っても良いのだ。#特化Vの会 も、活動では収益を生んでいないし、一般的な由宇霧コンテンツリスナーが求めている活動とは離れているかもしれないけど楽しいからやっている。
それに、由宇霧自身を好きでいてくれてる「おゆかり様」たちはわっちが幸せであることが大切なのです。
おゆかり様たちがここまで支えてくれてるからこそ、わっちは楽しむVTuber人生を歩めるようになった。
こころからありがとう!

まとめかたわかんなくなったのでおわり!
(この記事にいいねを押すと、わっちの性癖にささるものがランダムで出ます)

すぺしゃるさんくす:公開前に傷つける表現がないか記事を読んでチェックしてくれたV友達のみなさま♡

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