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超能力?…でちょっと見えたものは、意外に普通で難しい : 独り言





YouTubeのオススメで、
スプーン曲げの清田さんが上がって来た。

本当のところ、
スプーン曲げとかは
エンターテイメントと思うし、
能力ですと主張されると
胡散臭く感じてしまう。



だけど、
どうして胡散臭く感じてしまうんだろう?

逆に、
本当は現実社会で使われていない感覚以上のものをみんな持ってるんじゃないだろうか?




超能力者の彼らは、本当に念力でスプーンを曲げるし、ダウジングでものを探せる。
そう言う現実は、現実社会にないものとされているから、『胡散臭い』と感じてしまう。
もう一つは、自分が無いものを他人が持っているのを許せない…なんて言うのもあるだろう。
能力を使うには、気持ちが大きく関係する。否定的な人に囲まれ
「ほらやってみろ。」
と言われたら、出来るものも出来なくなる。でも、それは日常でもプレッシャーで出来ることが出来なくなるなんてよくある事だ。
だけど、
「ほらやっぱりな。」
なんて言われてしまう。
そう言う、社会の反応を肌で感じて、LGBT以上に秘密にしなくては行けない、まるで悪い事をしている様な感覚に能力者は感じているだろう。

思うに、それぞれ自分の感覚で、否定も肯定もする必要はないのかもしれない。
「分からない」
それだけなんだと思う。だって、分からないんだもの。
どうも人間の脳は、「分からない」を許せないらしく、何とか辻褄合わせをするそうで、それが「胡散臭い」の正体なのかも知れない。
自分に危害がない限り、胡散臭いの正体は脳の辻褄合わせと思って良さそうだ。



先日、
同僚と二人で車に乗っていた時のこと、車でラジオを小さくつけていたのだが、隣の車も同じラジオを付けていて、僅かな時差でラジオの音が鳴るのが気持ち悪くて、
「隣の車のラジオの音と微妙な時差が気持ち悪い。」
と、私が言うと、
「え?聞こえませんよ。」
と言うことがあった。

同じ現象が起こっても、それを感じるひと感じない人がいる。
恐らく人は、みんな同じ周波数を感じて生きている訳ではないのだろう。
周波数の知覚など、形に出来ないから比較し難いし、知覚していない人にどう説明しても並行線だ。ゼロは永遠にゼロだから。
そもそもが、他人が何を知覚して生きているのかなんて分からない。
言葉に出して初めて、知覚の違いを感じることが出来る。
ある周波数を感じてはいても、自覚していない人もいる。本人が自覚していなくても、体はちゃんと反応している事もある。本人に確かめたとしても、自覚していないから、それは無いのと同じ。

どんな周波数を感じ、どんな周波数を使っているのか、人それぞれ違い、人それぞれグラデーション。しかも他人の使っている感覚を知ることが出来ない。
思う以上に、人それぞれ、色んな能力を普通に使っているんじゃないかと思える。


…能力者たちが、最後に言うのは、
能力がどうこうではなくて、
「愛ですね」
「人に優しくですね」
と言う事だ。

なんか、
そこは真理だな…と。
意外に普通だけど、
一番難しいところにちゃくちする。

ふと、
自分の愛を探ってしまうけど、
どうも見当たらない。
だから植物たちの間に入ると、とても安心出来る。




清田さんは、
「愛ですね」
と言っていた他に、
「これは出来ない」と言う先入観で出来ない…とも、言っていた。
スプーンを曲げるのは、んー!!と力を入れるのではなくて、力を抜いてニュートラルでそれを思い浮かべる。
「これはこう言うものだ」
と、常識が入った途端、曲がるのではなく折れたり、曲がらなくなったりするそうだ。

私たちは、
常識と言う枠で、生き方の範囲も狭く決められ、本当はとても不自由に暮らす様になってしまったのかも知れない。
「これはこうに決まっている」
と言う枠で、ダイパをかんがえたり、
自分で枠を決めて、窮屈に生きるより、枠を外して、色んな壁を越えていく方が楽しいに決まっている。
呼吸を整え、ニュートラルで、他者が決めた何かでなくて、今自分がしたい事・するべき事をする方が、自然に生きて行けるのだろう。












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