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夢のマトリョーシカと映像 : essay



今日は全国的に雪が降ってるそうで、
朝起きると真っ白な世界が出来ていた。

大寒に、
大雨が降り、
雪でなくて良かった…と、
思ったけれど、
±5℃で、
雨になり 雪になる
不思議さ。
そんな誤差に
右往左往してしまう。



夢の話を始めましょうかぁ。

先日、
友達3人で部屋で話していると、
「私ね、浮くのよ。」
と言って、
私は唐突に浮き出した。
そうするともう一人が、
「私もよ。」
と言って浮き出し、
私の方が浮くスピードが速いから、
すぐに天井まで浮いてしまい、
天井を蹴って
「浮けると三回転も簡単。」
と言って回転し、
「え? 私もやってみる。」
と、もう一人も回転を試みた。
もう一人の浮く事の出来ない友達は
浮いている二人を眺めていたけれど、
別に驚く訳でもなく、
嫌悪する訳でもなく、
フツーだ。
そして回転しながら思ったのは、
浮く事が出来るのは当たり前と言う感覚と、
重力の制限を感じないと言う感覚。
それで、
「夢はそう言う感覚は伴わないもんね。」
と、もう一人の私が思っているのだ。
その後も、
ふわふわ浮いて、
アクロバット的な動きをして楽しんだ。


この後目が覚めて、
空を飛ぶ夢は、
途中で地面スレスレを飛んだりして
疲れたけれど、
浮く夢は快適だった。
体が無重力になる感じだ。
浮く事が当たり前と言う感覚というか。
そう、
夢は映像で、
痛みや重さやニオイを伴わない。
本当に体が、
音や痛み重さニオイを感じている時だけ、
それらを伴う。
だから、
それらの感覚を伴うはずが
その感覚がないと、
「あ、夢なんだな。」
と、気付きやすい。
でも最近は、
夢を見ている自分を見ている自分がいて、
既に夢と気付いている自分が、
夢と現実の差異を感じている。

夢のアトラクションを楽しむ自分と、
それに関する観察をする自分がいる。
だから感覚は並行して二つある。

違う二つの感覚が並行していると言うか…。


並行している感覚の説明は
まどろっこしい。


夢は、
自分と言う人間のマトリョーシカなのだ。


以前書いた夢の話をすると、


海辺で過去の思い出を思い出す自分
     ↕️
過去の自分
     ↕️
夢の中でも過去の自分を見るのだと感心する自分
     ↕️
その三つの状態を眺める自分

そんな4層構造が同時に並行して流れていく。
夢を見ている時、
多分、人は
自分と言うやつのマトリョーシカらしい。

一体どれを自分と言ったら良いのか?
と、思うけれど、
恐らく自分は並行し同時に存在して
同じ映像を見ながら
微妙に違う存在の仕方をしている。

4次元は並行世界と言うけれど、
夢の中のマトリョーシカ状態を
言っている…ような気もする。

夢は面白く、
まだまだ探って行きたい。




余談だが、
夢だとニオイや音、触覚、味、痛みを感じない。
感じている錯覚には落ちるけれど、
実際は感じられない。

それらは体の感覚器が捉えて、
感覚器が捉えたものを知覚している。
映像だけでは味わえない。

つまり。
ふわふわや
あま〜いスイーツ、
花の香り、
転んだ時の膝の痛さ、
寒い外から帰り温まる感覚、
雪に手を入れつんと冷たい感じ、
カラカラの喉に冷たい水…
夕暮れの音、
それらは体がなければ味わえないと言う事。


…で?

あ、それだけです。



う〜ん、
でも、
体があるうち、
そう言う感覚楽しんだ方がいいんじゃないかと…。
とにかく全て期限付きだし。



最近なのだが、
夢の中で笑っている夢は覚えているのだけれど、
嫌な夢は覚えていない。
嫌な夢を見たらしい時は、
起きた時、
もやっと胸の辺りに嫌な感覚があるだけ。
ある意味、
凄く都合よくなっている。

結局はまとまりのない話しだけれど、
飛ぶ夢が見たいと思っている方は、
浮く夢と思った方が、
簡単に飛べますよ…と、
言いたかっただけかもしれない。



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