見出し画像

言葉パンデミック時代の羅針盤

「言語 この希望に満ちたもの」
野間秀樹著 北海道大学出版会
https://amzn.to/3hWrG6V

本の扉を開けた瞬間にさまざまな言語で書名が載っている。言葉好きはうれしくなってしまう。

この短い書名を各言語に置きかえるとその意味するところは同じだろうが、各々の言語文化をバックにした訳し方のアプローチが変わってくる。それはおそらく訳した人にもよるだろうし、訳した場面やその目的でも、その訳語は変わるってくるだろう。

ここでは同じ漢字で表した書名が簡体字と繁体字で変わってる。これだけで興味津々。

このように地球は多言語に覆われているわけだが、「はじめに」で著者はいう。

「世界の半分は言語でできている」

話がデカい。

この巨大な世界をわずか2千数百円のソフトカバー本で読み解くわけだが、ともするとこの題名を見て、語学フリーク以外は手に取ることを臆してしまうかもしれない。

しかし、現代の言葉パンデミック状況を、さまざまな角度から照らした本書は、ちょっぴり英語好きとかKポップでハングルかじったとか、フランス映画にハマって発音覚えたという好奇心たっぷりちゃんにこそ触れてほしい。

少し知るだけで大きな世界が見えてくる言葉の世界の楽しさが爆発してる。パラパラめくって好きなとこから読めばいいし、索引が充実してるのでそれをきっかけに読みすすめてもいい。図表索引なんてはじめてみた。

言語に対する「構え」を造るには多言語に触れるのが大事だという。

たいていの人は興味が出ても、英語のできない私なんかが、とためらってしまう。でもこう言われたらどうだろう?

「薄い入門書を手に取って少しでもいいから、独習してみよう」

「どの言語であれ、入門書を一冊終えることができたら、それはもう壮挙、大勝利であって、いわゆる『自分へのご褒美』を自分で何でも買ってください。

(中略)

ただ楽しめばいい。音も必ず聞いてみよう。真似してみよう」P262

異言語入門はマジで楽しいのだ。
私は言葉大好きなのでいろんな言葉に手を出しているが、32歳ではじめた中国語にピンインってのがあって、アルファベットでフリガナつけるの知って驚いた。韓国語は70%漢字語だってのにもびっくりした。学生時代ロサンゼルス行ったらスペイン語通じることにたまげたし、実はそれよりびびったのはメキシコ国境越えたとたんに英語が通じなくなったこと。でもね、”Más barato por favor”「値引きして」くらいで40日乗り切れる。よしゃあいいのに46歳でフランス語始めた時には80ってのを4x20と表現すると知ってアホちゃうか?と思った。

ともかく入門レベルでも驚きがつまってるのだ。

本書に戻るとエスペラント語についても言及がある。希望と名のついた言語は、理想はともかく使われていないだろうと認識していた。それがなんとWikipediaの記事ランキングで35位だというのだ。300言語以上あるのに。

そもそも私のエスペラントに対する理解もそもそも間違っていた。

「ザメンホフは何も世界の言語をエスペラントに統一しようなどと、作ったわけではない。どこまでも国際補助語である」P266

先日みた「異端の鳥」というモノクロ映画ではおそろしい民族排除をしている地域を特定しないことを目的にスラヴィック・エスペラント語が使用されていた。スラヴバージョンまであるのだな。原作は英語で書かれているのだからリアリティと幻想感は映画の方が増しているのだろうな。

ひとつの原作であっても書かれたものであっても翻訳されると別の世界感になる。それは誤訳とかそういった瑣末なことでなく、言語の成り立たせる文化が影響する。

一例としてヴィトゲシュタイン「論理哲学論考」が挙げられる。日本語や韓国語でさまざまな翻訳が出ているが、冒頭の文だけも翻訳者ごとに趣きが違う。そもそも原作自体もドイツ語、英語の対訳で書かれており初めから2言語バージョンがあるそうだ。

「まるで独語ヴィトゲシュタイン、英語ヴィトゲシュタイン、韓国語ヴィトゲシュタイン、日本語ヴィトゲシュタイン人と言ったごとく、言語ごとに少しずつ違ったヴィトゲシュタインでも存在しているかのごとくである」P245

さらに二言語で出版すること自体がすでに危険な営みだという。

「危険というのは、ドイツ語と英語という言語ごとに、その哲学が分裂してしまうような陥穽を内に孕むことになるかもしれないからである」

でも続けて
それは魅力的、画期的と続く。

確かに好奇心を刺激される。
私は以前、ある日本語の詩を読んだ。旅先でその詩をヨーロッパの友人が読んだと聞き、詩人本人による英訳があることを知り読んでみた。そして驚いた。意味するところは同じでも世界感が違って響くのだ。詩特有の音韻の考え方が影響しているのかもしれないが、ともかく別物であった。

著者は言う
「翻訳についてさらに言うなら、『言語は個別言語しか存在せず、あらゆる言語的知は個別言語という軛を棄て得ないのだ』」

ともかくこうしたわずかな引用だけで身世界が言葉でできているという現実が皆さんにもみえてくるのではないだろうか。

さらにそのコトバがスマホを通してパンデミックするとどうなるか。話された言葉が消えずに、恣意的に切り取られて、書かれた言葉が主体なしに拡散して、各々が勝手解釈して、あることもないことになり、名付けによってないこともあることになる。そんな世界を生きるには言葉というものを知ることがとても大事だろう。著者曰く、言語を生きる〈構え〉が必要だ。



仏語検定2級試験に落ちてブルー(bleu)な蒸し暑い午後に筆をとる。(実際には筆も紙もなくスマホに指一本でタップしてる。時に音声入力をまじえつつこれを記す)

以上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?