パルファム・レモン
いつの間にかそれは部屋の片隅に鎮座していた。
六角形の薄汚れた箱だ。
大きさは一抱えほど。
埃が積もっているわけでは無いが、醜く黒ずんで、触りたくないと思わせる。
だから、見ないようにしていた。
箱はあるのにないものだった。
いつからあるのか思い出せないほどそこにあり、ずっと存在を無視されてきた。
嫌だ嫌だと思うものは逆に目についてしまうものだ。
忘れたふりをしていても、そこにそれがあることはずっと頭の隅に引っかかって心に影を落としていた。
時折ふと思い出しては頭の中から無理矢理追い出し、そして何か別のことに逃避する。
楽しいことをしていれば、それがあることを忘れられた。
忘れている、ふりをしていられた。
そうやって、季節が廻った。
春も、夏も、秋も、冬も、何度も廻った。
箱の存在は、もうすっかりどうでもいいものになっていた。
どうでもいいと思いながら、それは全身を覆う鉛の塊のようなものになっていた。
その重さにも、もう慣れた。
(本当は慣れてはいけなかった、そのはずだ)
ーー同僚が、これ、あげる、と何かをくれた。
ピンク色の不織物の布で出来た小さな袋だった。口は黄色いリボンで閉じられている。蝶を模した形。不愉快になるほど、爽やかで鮮やかな色だ。
いらないと思った。思ったが、断れなくて受け取る。窓から射す朝の光。中身は見えないが、触った形から小瓶であることが窺い知れた。
袋に入った何かは、机の片隅に置かれ、開封されないまま、やがて引き出しの奥へとしまわれた。
その間も、薄汚れた箱は部屋の隅にあり、存在を無視されながら存在を主張していた。
冬が来た。
その日、空は黒雲が重く立ち込め、夜半過ぎ、パラパラと降っていた雨はいつの間にか雪に変わっていた。
ふと、甘酸っぱいような匂いがして、目が覚めた。
ベッドの中で目を開ける。
……誰かが、いる。
灯りの消された部屋。薄く浮かび上がる人影。恐怖も何もなかったのは、これが夢だと分かっていたからだろうか。
部屋の中は真っ暗と言っていいほどなのに、その人影が金髪であることがわかった。手足は細く、華奢で、女の子だ、と直感する。
幽霊だ。
幽霊は、金色の髪の少女は、こちらに背を向け、じっと壁の隅を見つめていた。
視線の先にあるのは。
……あの箱だ。
「きれいな、はこ」
鈴の音。違う。声だ。少女の声。
「磨いていい?」
少女が振り向く。ふわり。甘酸っぱい、青春の香り、なんて表現される果実の。……馬鹿みたいだ。
「やめて」
「どうして?」
「そんなものに価値はないの」
少女はしゃがみこんで箱を持ち上げた。一抱えはあるのに、随分と軽そうだ。そんな軽々持ち上げないで。理不尽な文句が胸に満ちる。
目の奥が痛い。ほら、やっぱり。中身は空っぽなんだ。そんなこと。わかっているのに、わかっていたのに、どうして今更。
「……やっぱり、きれい」
少女の手が箱の表面を撫でる。そこだけ汚れが取れて、下から真珠のような光沢がのぞく。
真珠。真珠は満月の光で出来てるのよ、なんて。そんな御伽噺は、誰から聞いた話だっただろう。
「わたし、ここにはいりたいなあ」
そんなところ、入ったってつまんないだけよ。
「ううん、ぜったいたのしい」
どうして。
「だって、あなたにあいたくて、ここまできたんだ」
景色が変わる。
自分の部屋で寝ていたはずなのに、どこかの喫茶店の中にいる。
二人がけのテーブル。絵の飾られた白い壁。甘く優しい香り。目の前に、金色の髪の、はっとするほど綺麗な顔立ちの少女が座って、心底嬉しそうにこちらを見る。
「あいたかったんだよ」
ピンク色の不織物。黄色いリボンが解かれる。口が開く。中から小瓶が滑り出る。
どうしてここに、なんて疑問は、すぐに吹き飛んだ。
逢いたかったから、ここにいる。
……ああ、わたしも。
「わたしも、あなたに逢いたかった」
真珠色の綺麗な箱。
ぱちんぱちんと弾けるような。
檸檬の、香り。
やがて大事な大事な宝物になったそれを、いったい誰がくれたのか。
それは今でも思い出せないままだ。
顔も、名前も、その人がその時そこにいたのだという事実さえ。
今でも、思い出せないままだ。
けれどもたぶん、それでいい。
見上げた空は青く澄んで、ああ、世界はこれほど美しかったのか、と。
そう思えることが、きっと恩返しになるのだろう。
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