酷暑

「ありがとうございましたー」
 何の気持ちもこもっていない建前のあいさつをみんなで叫んで、体育の授業は幕を閉じた。
 うだるような暑さだ。全身に鉛を入れられているかのように、体が重く気だるい。ざりざりと砂を踏んでいる足の感覚が、余計にその不快感を増大させていた。
「あ、そろそろヤバいかな」
 こんな暑さじゃ、乾いてしまっているかもしれない。そう思い、重い足をできる限り早く前へと進める。
 前も、そんなことがあった。暑くて、暑くて、仕方がなくて、カラカラになって悲痛な表情でこちらを見上げていた。まさか、一時間水をやらなかっただけでそんな風になってしまうとは思ってもいなかったから、とても驚いたものだ。
 今回も危ないかもなと、うっすらした危機感が心を覆う。
 そうこうしているうちに、昇降口につき、薄暗い下駄箱が迎え出た。靴から発せられているみんなの汗のせいか、いつもよりも増して不快なにおいがする。汗と土と泥を混ぜ込んだような、鼻をつまみたくなるけれどつまむまでではない、あの絶妙な嫌な感じのにおい。
 早歩きで来たからか、他のクラスメイトの姿はない。雑談しながらゆっくりグラウンドの方から歩いてきているのだろう。
「……!やっぱり!!」
 下駄箱の中に手を差し入れ、それを取り出してあげる。――やはり下駄箱で待っていてもらっていたブタは、カラカラに乾いていた。
 ピンク色の産毛の生えたさらさらで柔らかい表面は、見る目もなくカサカサになり、感想で皺が寄っている。乾く前の姿よりもずっとやせ細っていて、いつもより一回り小さく、そして薄くなってしまっていた。
「あぁ……そんな」
 かわいそうに、という言葉は声に出ず、心の中で囁かれた。
 カワイイ真っ黒のつぶらな瞳は、ぎょろっとした無残なモノとなり本来あるべき場所から飛び出ていた。若干、血走っているようにも見え、悲しんでいるようにも、こうなってしまったことを責めているようにも見えた。
「早くしなくちゃ」
 靴を素早く履き替えて、ブタを左腕に抱える。ブタは何の抵抗もせず、はく製になったかのように動かず抱かれていた。
 この子は怒っているのか?泣いているのか?呆れているのか?なにもわからなかった。干乾びてしまって、感情表現がなにもできないだけなのかもしれない。そう思って、酷く悲しくて申し訳ない気持ちになった。
 ついこの間も干乾びさせてしまったばかりなのに、またやってしまった。人間には我慢できる暑さでも、ブタにとっては致命傷になる。今年は特に暑いから、気を抜くとすぐにブタは干乾びてしまう。
 それは、わかっていたはずなのに。
「う、うぅ」
 こんなことになってしまったのは自分のせいなのに、泣きそうになる。ブタの方がしんどいはずなのに。
 足を引きずるようにしてようやくたどり着いた手洗い場で蛇口をひねる。暑さで水道管が熱されていたのか、生暖かくて気持ち悪い温度の、限りなくお湯に近い水がドバドバ出てきた。
 左腕に抱えていたブタを蛇口の真下に置き、水をかけてやる。
 透明なそれは、ガサガサになっていた表皮に吸い込まれていく。吸い込まれ、失われていた潤いが息を吹き返そうとしていた。
 潤いを取り戻したブタは、体を動かすこともなく、鳴き声を上げることもなく、こちらをじっと見つめていた。そこには怒りも悲しみも、喜びもなにもない。しっかりと元の場所に戻った黒瞳にはなにも浮かんでいなかった。
「ごめんね……ごめんね……」
 視界を歪ませていた水が、重力に耐え切れず目から離れ落ちていく。
 それは潤いを取り戻しフワフワに戻ったブタのピンク色の表皮に吸い込まれていった。
 一回決壊してしまうと、もう止められなくて、成すすべなくボロボロと大粒の涙が落ち、ブタに潤いを与えていく。
 それをブタは無感情に享受していた。

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