声帯、枯れ果て

 トイレに行こうと思い廊下を歩いていた。ここは高校のはずなのに、教室を出たらなぜか中学校の廊下の景色が私を迎えた。
 普通なら驚くべきことなのだろうが、私の心はこれを平然と受け止めて特に疑問には思わなかった。
 窓から光の差し込む渡り廊下を渡り、北校舎に向かう。突き当たりで右側をみると図書室があったのでここはどうやら二階のようだ。
 だが、左側をみると三階にあるはずの理科室があった。
 その理科室に面した廊下を、二人の人間が歩いていた。なんと、高校の古典の先生と現代文の先生ではないか。どうしてここにいるのか──という疑問が湧く前に、私の心は驚きで包まれた。
 古典の先生が、白い服を着ている──!?
 この男、「漆黒が好きなんだ」と言って毎日黒づくめの格好をしている。マスクも黒いし、腕時計も黒いし、腕につけた悪趣味な数珠まで黒い。
 そのはずなのに、今ここにいる古典の先生は白い服を着ていた。
 古典の先生のことは好きだが、ちょっと畏れを抱いているところもある。だから私は話しかけずちゃっと早足で理科室の前にあるトイレに滑り込んだ。
 
 トイレに入ると、いやに四角い和式トイレが設置されていた。こんなだっただろうか?
 背中側の壁は、一面が横長のデカい鏡になっていて、私の間抜けヅラと綺麗とも汚いとも言えない個室便所の景色がうつっていた。
 ──鏡から目を離し用を足そうとした瞬間、私はとんでもない違和感に襲われた。
 今、人みたいなのが鏡にうつっていなかったか?鏡にうつるトイレの窓のところに人の肌のような色がうつった気がした。
 まさかな、と思って目線を前に向けると、そこには。
「──ぇ」
 心臓がギュン!っと掴まれたみたいになる。全身の毛が逆立つ感覚が私を襲う。
 少し開いたトイレの個室の窓。綺麗な青い空が今日ばかりは私を嘲笑っているように見えた。
 そこに、確かな異物が。
 オッサンだ。のぞいているのは顔だけだったが、ものすごいデブだというのはわかる。メタボリックシンドローム、という言葉を体現したかのようなオッサンだった。
 そのオッサンは、私と目が合うとニッタリと嗤った。ねばついた、キショい笑顔だった。
「ひ」
 喉が渇く。脳みそが渇く。
 完全に混乱してしまって、何も考えられない。
 そうこうしているうちに、オッサンが動いた。目の前にヒゲ面のきったねぇ顔面が迫る。
 ──窓からトイレの個室に飛び込んできたのだ!!
「キャァァアアアア!!!!!」
 今まで出たことないくらいの声量で悲鳴が出た。
 ああ、そうだ!さっき、古典の先生と現代文の先生がいたから、きっとこの悲鳴が聞こえて助けにきてくれるはずだ。だって、こんな学校に、こんなトイレに、女子トイレに、こんなオッサンがいるなんて。古典の先生は男性だけど、女子トイレだからって関係なく自分の生徒を助けるために来てくれるはず、はずなのに。
 廊下からは誰かが駆けつけてくる音どころか、何も音がしない。私とこのオッサンしかいないのではないかと錯覚するほど、無音だった。
「ひ……ひぃ……」
 さっきので出切ってしまったのか、口からは怯えきった女の声しかでない。腰は抜けてしまい、立つこともできない。
 ただただ、壊れるくらいの勢いで拍動する自分の心臓を感じることしかできなかった。

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