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鮮血の薔薇―ピルス前日譚―

 「母さん!」
少年ピルスは、ドアもノックせずに母親がいる執務室に押し入った。彼の眼差しは輝いており、その眼差しは母親の顔に向けられる。
「いけないわ、ピルス。ドアはちゃんとノックしませんと」
「そ、そうだった、ごめんなさい。そんなことより、ほら見てよ」
母親の忠言は素直に聞き入れつつも、ピルスは持っていた紙切れを見せる。100点と花丸が大きく書かれたテストの答案用紙だった。
「今日のテスト、完璧だったんだ! 凄いでしょう?」
「凄いわね、ピルス。クリンゴ家の息子として誇らしいわ」
ピルスの頭を撫でながら、執務椅子より立ち上がる。
「ごめんなさい、ピルス。お母さん、これから仕事だから……またゆっくり話を聞かせてちょうだいね」
母親は優しげな笑みを湛え、金色の長い髪を靡かせながら執務室を後にする。窓から差し込む太陽の光を受けてシルクのように輝いた。
(……綺麗だなぁ、母さんの髪)
そんな美しい髪を持つ母親がピルスは好きだった。
母親の姿が見えなくなるまで、窓からずっと見つめていた。

 亡くなった父親に代わり、母親が当主を務めており、激務をこなす日々ではあったが、それでも一人息子のピルスと過ごす時間を大事にしていた。食事の時間になれば、勉強の話や剣術の稽古の話を聞き、たまの休みには美術館などに連れて行ってくれていた。

 「綺麗な絵ね、ピルスはどう思う?」
とある休日、美術館に連れて行ってもらった時の話だ。
 数百年前に描かれたという、長い黒髪の女性の絵だ。両手を前で重ねている描かれた女性の表情は人によって見方が分かれ、微笑んでいるようにも悲しんでいるようにも、如何様にも見られる。そもそもこの女性は誰をモデルにして描かれたのか、背景は何処なのか等、多くの謎を秘めた絵であり、長い時を越えて、人々を惹き付けてやまない絵なのだという。
「綺麗だと思う。絵は凄いよ、美しいっていうものをずっと美しいままにしておけるから。でも……」
ピルスは母親を見上げて、こう言った。
「母さんの方が綺麗だよ。いい匂いもするし」
ピルスは髪の毛をサラサラと触りながら、髪の毛から僅かに漂うローズの匂いを味わっていた。
「ありがとう。貴方の髪も綺麗よ」
ピルスの髪も母親譲りのブロンドだったが、自分の髪など、比べるまでもないと思っていた。
『この世で美しい物は何か』と問われたら、目の前の数多の人を惹き付けてやまない絵でも、煌びやかな宝石でもなく、ピルスは「母さんの美しい髪」と即答できる自信があったからだ。
美しいものは美しいままでいるべきだ。目の前の絵のように。幼くして、ピルスはそんな考えに至っていた。

 しかし、人間は老いに抗うことは出来ない。
ピルスが15になった頃であった。土地の利権争いや財政難に陥り、家は存続の危機にあった。
 母親もその対応に追われて、己を労るような暇もなく、どんどんやつれていった。玉のような輝きのような肌も、活力に満ちていた紅い瞳も日毎にくすんでいった。そして、艶やかなブロンドの髪も。

 (ああ……、母さん、つらいだろうな。周りも周りだ、どうしてこんなに母さんを追い詰めるんだ……)
恵まれた環境の中で何一つ不自由なく育った彼は、全てが最高クラスの物で育ってきた。跡取り息子として、政治や財政、教養など、必要なものは徹底的に叩き込まれていた。だが、15という齢ではそこには手出しなど出来るはずもなかった。何一つ出来ないまま、このまま指をくわえて見ているだけしか出来ないのだろうか――。

 (母さんは美しいままでいるべきだ。これ以上、苦しませたくない)
ふと、自分の腰に佩いた銀色の剣の存在を思い出した。それを鞘から取り出す。美しく磨かれた剣に自分の顔がハッキリと写し出される。
「そうだ……。この剣で母さんの時を止めてしまえばいい。そうすれば、あの美しさを永遠に留めていられる。美しいものは美しいままでいなければ」
我ながら妙案だ。そう思った時には、ピルスは母のいる執務室へと駆けて行く。満面の笑みを貼り付けながら。

 「坊ちゃん、何を……ぐはぁっ!」
周りの衛兵やメイドを、持ち前の剣技で労せず殺していく。中庭、エントランス、廊下……家の全てが血の海に溺れていく。
「邪魔を……するな!」
母親の美しさを奪うのであれば、それが自分の家であろうと許すことは出来ない。どうせ、存続が危ぶまれているのだ。こんな家も無くなってしまった方がいい。

 「母さん……!」
執務室に押し入ったピルスは、騒ぎを聞きつけた衛兵に止められた。
「お逃げください! ピルス様はご乱心で……ぐほぁ!」
「邪魔をするな、と言っているだろ!!」
銀色の剣を閃かせると、力なく衛兵は地に伏せる。吹き上がった血がピルスに降り注ぐが、気にすることなく母親の前へと歩を進める。
「どうして……。ピルス、どうしてこんなことを」
鮮血にまみれた息子の姿に戦きながら、母親は震えた声で問いかける。
「どうしてって……母さんを楽にしてあげたいからさ。母さんの美しさが、これ以上失われるのは耐えられない! その前に……永遠に美しいままで、終わらせてあげたいんだ……!」
質問に答え終わると、ふぅと息を吐いて、静かに剣を構え直す。紅い薔薇の花弁が、ピルスの周りを舞い始めた。

 「今、楽にします……!!」
ピルスの剣は、目にも止まらぬ速さで母親の心臓を貫いた。
「が、はっ……! ピ、ルス……っ」
大量の血を吐き、母親はピルスの腕の中で息絶えた。そして、ピルスは絶命した母親の髪をハサミで丁寧に切った。
「は、はは……これで、母さんは永遠だ……! 永遠を生きられるんだ! 僕の手で……ッ!! アハハッ、アハハハハハッ!! 母さん、これでずっと一緒だからね……」
ブロンドの髪束を大事に小さな袋にしまい、ピルスは血の海に染まった家を後にした。

 その後、何かが壊れたかのように王国内の髪の綺麗な女性を手当り次第に殺害しては、髪を切り取りコレクションしていった。

「エタンセルの女性の髪は美しく、そして馨しい……まあ、母さんには到底及ばないですがね。……さあ、他の国の女性はどんな髪をしているのでしょう」

 これが『エタンセル王国の汚点』といわれる青年の始まりの物語である。

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