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豆腐怪談 64話:そこじゃない
知り合いHが家賃が安いという理由で事故物件に住んでいる。
老人の孤独死があった部屋だそうだ。発見当時はひどいことになっていたらしい。
「事故物件つっても犯罪があったわけではないし、この部屋はこのとおり完璧にリフォームされてきれいな部屋になってるだろ?それに駅とスーパーが近くて、照明付き、最新の2口IHに、エアコン付きでこの家賃だ。引っ越す理由もない」
俺の知らん過去なんか知るか、と知り合いHは全く気にしていなかった。
しかも笑いながら発泡酒をあおる。図太いお人である。
「ああ、でも」
Hは急に真顔になった。
「幽霊なら出たな」
ちょうど1年ぐらい前、雨が降り続いた日だったという。
当時Hは激務につぐ激務で毎日深夜ごろに帰る日々だったそうだ。
ある日、Hの疲労はピークに達した。
その日は帰って早々に雨で濡れたスーツを脱いでシャツとパンツ姿でソファに倒れこみたかったぐらい彼は疲れていたそうだ。
しかしHはなんとか立ち上がり晩飯をレンジに突っ込んだ。晩飯はコンビニで買ったカツカレーと、最後の1個だからという理由で買った賞味期限間近のサラダだ。
疲労が蓄積した身では、脂っこいものも生野菜も、飲み込むのに喉が拒否反応を起こして億劫になる。
しかしこれしかコンビニに残っていなかったから他に選択肢はなかった。それらを水と共になんとか喉へ流し込む。無理矢理にでも腹を満たして栄養にするしかない。
くすぶり続けるような胸やけと重い腹を抱えながら、足を引きするように風呂場へ向かう。
頭はシャワーを浴びること以外は何も考えられなかったそうだ。
風呂場は浴室乾燥機付きの広い風呂だった。しかし今のHには風呂桶を洗う気力もなく、その状態で湯舟に浸かったら間違いなく寝てしまって、溺れるのは目に見えていた。
Hは最低限程度に身体を洗った。あとはシャワーに打たれるまま、排水口にお湯が吸い込まれるのを空っぽの頭で見ながら、じっと体に湯を流し続けた。
脱衣所でのろのろと体を拭く。脱衣所の窓に映った己の顔はひどいものだった。
そして窓の向こう、外では雨が降り続ける音がまだ重く響いている。
重い重い疲労からくる沈鬱な気分が更にに黒い塊となって腹の底へ溜まり澱となる。いま思い出さなくていいどうでもいいことが不意に頭の中で浮かび上がり、思い出してしまう。
不動産屋はHが契約書にサインする前に「告知義務ですから」とこの部屋について教えてくれた。
物件見学の時にも伝えたように、この部屋は老人が孤独死したこと。発見がおくれてしまい“ひどい有様”になっていたこと。そのため部屋はリフォームされ、特に風呂場周辺は念入りにされたと。
Hは開けっ放しにしてある引き戸越しに風呂桶を見る。思わず思い出したことをぼそりと口に出した。
「…そういや、風呂桶だっけか、前住んでたバアさんが見つかった場所って」
「違う、違う!そこじゃない!」
Hの声でない、誰かの声が否定するかのように脱衣所に響いた。
「ア?」と声に出す間もなく、Hの顔は頬を挟むように両側から見えない手に掴まれた。
冷たく乾燥した年寄りのような手に、無理矢理顔の向きを変えさせられる。
「ここ!ここだよ!」
目の前には風呂場と脱衣所の境目、引き戸のレールがあった。
Hの目にほんの一瞬だけ、黒い大きな人型のシミがレールの上に見えた。
「あ…」
Hが声を出した直後、掴んでいた見えない手が離れた。同時にシミも消えた。
ここだったのか…
Hはまだ感触が残っている頬をさすった。そして、引き戸に向かって手を合わせた。
それからHは洗面台で再び顔を洗った。
あの、ゾッとするような冷たく、シワだらけの手の感触は、数回洗ってようやく消えたような気がした。
そして濡れたスーツを干し、泥のように眠った。
仕事の山場が過ぎて少し落ち着いた時、Hは職場に辞表を叩きつけ、転職した。
「普段はこうヘラヘラ平気でもな、ストレスとかで精神がどん底になっているときに限って、この部屋が元々何だったかと思い出してしまうんだ。自分の生活空間に常に黒いヒトの形のシミが見えそうになってちまって、更に気分がどん底の底になっちまうんだよ。事故物件の怖いところはそこだ」
Hは発泡酒をあおった。空になったらしく缶を振った。
「あの時は幽霊の声が妙に明るかったから、どん底の底にはならずに済んだ。でもあの時は乗り越えても、あそこで働き続けていたら、そのうち過労と鬱でぶっ倒れて俺が第二のシミになるのは目に見えていたな。俺はシミにはなりたくないからな、辞表を叩きつけてやったよ」
事故物件との付き合い方は俺に言わせれば気の持ちようだな、とHは締めた。
なお、あれ以来、幽霊の声を聞くことはないという。
【終】
※豆腐怪談シリーズはTwitter上でアップしたものを訂正&一部加筆修正などをしたものです。
ヘッダー引用先
kotoさんによる写真ACからの写真
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