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豆腐怪談 67話:夢の川

ここ十年以上も、似た夢をよく見る。同じ夢と言っていいかは細部が違うから微妙だ。
私は夢の中である川岸を歩いている。川岸まわりの風景は夢を見る時期によって違う。

その夢を見始めた頃は、その川は街の中を流れていた。
整備された川岸の遊歩道みたいなところを歩きながら、私は川を見る。
街の中なのにその川は渓流のように狭く、水の流れは早かった。川の上流から赤い何かが流れてくるのを見えた私は、何だろうかとそれを見ようと屈んだ。
立ち上がった途端、そこで視界が場面転換したかのように変わる。

私は誰かに手を取られて、川の水際を歩きながら上流へ向かっていた。
太陽光を反射した水が勢いよくはねて足元を濡らすが、濡れた不快感がなかったから私は気にしていなかった。そこが夢のいいところだ。

私の手を取っている青年の顔は分からない。彼の私の手を引っ張る力が結構強いのだが、私はそうされるのは何故か満更でもなかった。
彼は人懐っこい笑顔を浮かべていたから、私も安心していたんだろうと思う。私は彼とのお喋りを楽しみながら歩いていた。彼も楽しんでいたと思う。しかし彼が何者でどんな服を着ていたか、彼との会話内容は全く覚えていない。
しかし、その人懐っこい沁みるような笑顔、それだけはしっかりと覚えてる。
彼とどこまで川をさかのぼったかは分からない。そこだけは常に曖昧になってしまって目が覚めていた。


その夢を見始めて数年が経った時、夢で見る川岸まわりの風景は郊外の住宅地になっていた。
その川岸は雑草が生い茂る、放置されたかのような小さな運動場や遊歩道だった。
しかし川は変わらず渓流のような透明で勢いある川だ。上流から赤い落ち葉のような花のようなものが流れている。それは街の中で見た時より増えていた。
私も街の時と同じように上流から流れてきた赤い落ち葉を見ようとかがんでいる。流れる雲の合間から照らされた太陽光が眩しかった。

その後はあの沁みるような人懐っこい笑顔のあの青年に、また手を取られて水際を散歩するかのように一緒に歩いていた。街の中と同じように。
そして相変わらず彼の服装を覚えていないのも同じだった。
違うのは、歩くスペースが少しゆっくりになっていたのと、足にあの落ち葉みたいなものが張り付くようになっていた。そして会話の内容を少しだけ覚えていることだ。

「まだ歩けるかい?」
あの彼が私の体調を気遣うように聞いてくる。
「ああ、まだ歩けるよ。もうちょっと歩いて上流を見てみたいな」
なんてことないさと私は笑顔で返した。
「君はまだ歩けそうだ。でも今はここまでにしておこうか」
青年はそこで立ち止まった。

そしてそこでいつも目が覚めていた。



今見る川の夢で私は、山の中を歩いている。やっと渓流に合った川岸まわりの風景になったってところだ。
私は上流から流れる紅落ち葉のようなものは川の三分の一を締めるぐらい多くなっていた。秋の渓流らしく美しい川の水際に惹かれた私は、一人上流へ向かって歩いていた。

雲が厚く、その下の少し薄暗い渓流は木々と大きな岩の影のまだら模様に覆われ、その暗さはどことなく気味が悪いものすら覚える。しかし、かえって紅葉が映えるようできれいだと私は思った。
ツタが垂れる木の下を抜け、灰色の大きな岩の脇を川へ落ちないように慎重に通る。
大岩を抜け、視線を前に戻すといつの間にか、目の前をあの青年が歩いていた。

先の夢と違うのは、彼は私の手を取っていない。私が両手に靴を持って歩いていたからだ。私たちは川の浅瀬の中を歩く。ビシャビシャと音を立て、赤い紅葉のようなものを足に覆うように張りかせながら、私たちは軽快に歩く。
彼は背中をこちらに向けているから、どんな表情を浮かべているかは分からない。
ただ穏やかで優しい、沁みるような良い声は変わってなかった

「ここまで一人で来てくれて、僕は嬉しいよ。でもさすがに疲れてきたかい?」
「まだ大丈夫。私はまだもう少し歩けるよ」
「そうだね、君はまだもう少し歩けそうだ」

視界の先にに人がひとり通れるぐらいの幅の赤い橋が見えてきた。
サビだらけの細い橋だった。誰も利用者がいなさそうな朽ちかけた橋だ。
彼がこちらを振り向いた。
「ほら、アレが見えてきた。さあ、もうちょっとだ」
橋の下を通り抜けると、彼が反対側の川岸の向こうを指差した。

指差した先には、薄暗い山の割れ目のような木々の隙間があった。
洞窟のような、地下へと続くような入り口のような、真っ暗な深い深い穴のようにも見えた。
あれは、この山の本当の入り口だ、なぜかそう私は思った。
そしてそこで目が覚める。

「これはいい夢だか悪い夢だか分からないな」
私には判断しかねる夢だ。


しばらくその夢を見ていなかった時だ。その夢のことは忘れかけていた。
ある日、用事があってある山へ行った。その帰り道だ。
帰り道に通る予定の道は土砂崩れがあったとかで通れなかった。作業現場の人に教えてもらった道を、己の中に潜む方向音痴と戦いながら進んでいた。
車一台しか通れないような山道を車でおっかなびっくりしながら進む私は、ある確信を得た。
「やっぱり、道を間違えていた。どこだここは?わたしはどこだ?」

取り合えず進むにつれ、山道は整備された道路から、荒れたアスファルトへと変わり、ついに舗装されていない山道そのものになってしまった。
引き換えそうにもここではUターンすら難しい。どう戻ったものかと思案しながら進む私視線の先に、車一台がかろうじて停められそうな空き地が道沿いに見えた。
「ありがたい。ここなら慎重にやればUターンできそうだ」

空き地の下では川が流れているらしい。私は転落しないように何度もハンドルを切りながら慎重に車の向きを変える。
「やぁっとできたああ」
なんとかUターンができた私は車の中で息をはいた。先ほどとは違う向きでその空き地に車を止めた私は休憩がてら、車の外に出た。
この路肩から川岸へ降りることができるらしい。好奇心から私は川岸へ降りることにした。


川岸へ降りた途端、私は強烈なデジャブに襲われ立ち尽くした。
厚い雲の下、木々のまだら模様の影に覆われた薄気味悪く暗い川。何度も見た早い流れ。
「ここは…あの夢で見た川?」
ツタが垂れる木々、灰色の大きな岩。そして、川の三分の一を覆う、紅葉。薄暗い川は紅葉の赤を際立たせその対比が綺麗だった。
「まさか本当にあったとは…」
私は何かに惹かれるように川へ近づいた。そして川岸を歩く。

ツタが垂れる木の下を抜け、灰色の大きな岩の脇を川へ落ちないように慎重に通る。
しかし大岩を抜け、視線を前に戻しても、あの人懐っこい笑顔の彼はいなかった。
当たり前だ。
私はひとり苦笑する。彼までいるわけないだろうに。

私は靴を脱ぎ、靴下をポケットに突っ込んで川を遡る。
実際に水の中を逆流して登る川上りは、夢の中では想像もつかないほど疲れるものだった。
「くっそ、こんなに疲れるものとは思わなかった…」
肩で息をしながら進むが、不思議と引き換えそうとは思わなかった。
この先にあるものにたどり着きたい、この先にあるものをどうしても見てみたい。
謎の好奇心が私を突き動かしている。後戻りできるかどうかは考えもせずに。

「ぜえ、ぜえ、ここが夢で見た場所なら、ぜえ、たしかもうそろそろ…」
肩で息する顔を上げた先に細い赤い橋が見えた。
人がひとりだけ通れそうな狭い、あの赤い橋だ。
「まさかこの橋まであったとはねえ…」
橋の下へ歩き、岩へ腰を下ろす。足は水と紅葉に浸かったまま、休憩がてら橋脚を見上げる。誰も利用者がいなさそうな橋だ。サビついた箇所も夢で見たそのまんまだった。

たしか、この橋を抜けると…
記憶を辿ろうとしたその時。


「ここまで一人で来てくれて、僕は嬉しいよ。でもさすがに疲れてきたかい?」


あの青年が対岸に立っていた。この穏やかな声は間違いない、彼だ。夢で私の手を取っていた、あの人だ。
「マジですか。…まさか本当に…いるなんて…」
言葉を失って立ち尽くす私に向かって、彼はあの人懐っこい沁みるような微笑を浮かべた。
ああこの顔、本当に彼だ。
「さすがにここでは疲れたようだね」
彼は手を私に向かって差し出すように、伸ばした。
「ここまで歩けるかい?おいで、アレまではもうすぐだ」

私は対岸の向こうを見上げた。
夢でみたあの木々の隙間、深い深い暗い穴のような“本当の山の入口”がそこにあった。“本当の山の入口”は門のようにそびえる数本の木々の向こうよりは真っ暗で、ここからは何も見えない。
まるで大きな口を開けて、入るものを待ち構えているようだ。
そう思った私の体の奥から、強い警戒音が頭の中を走った。
やばい、これはきっと入ってはいけないところだ。

躊躇し固まる私に対して、彼は穏やかなあの人懐っこい笑顔を浮かべ、私を手招いた。

「おいで」

夢で聞いた時と同じ、穏やかで優しい良い声だ。その沁みるような声と笑顔に惹き寄せられそうになる。
しかし、彼の服は夢の中同様、何を着ているのか分からなかった。顔が見える距離なのに、着ているものは洋服なのか和服なのか判断すらできない。茫洋と白いものを纏っている、それしか私の目には分からなかった。
ああ、彼もあの暗い穴同様に近づいてはいけないヒトだったんだ。
夢に出てきた人が目の前にいる時点で、気付いていなければいけなかったんだ。

得体がしれない彼と“本当の山の入り口”から目を背けた私は、足に違和感を感じ足元を見た。
紅葉が足にまとわりつく。いや、それは紅葉ではなかった。
それは赤いハンカチや、赤いバレッタや、赤い手袋や、赤いスマホケースや、赤い靴下だった。
誰かの持ち物だった赤色の物が私の足にぶつかり、まとわりついている。
「うわ…っ!」
思わず後ずさった私に、彼は笑顔で手招き続ける。

「おいで」

対岸にいるはずなのに、あの穏やかで沁みる声が耳元から聞こえるようだ。

「おいで」

穏やかな声の下には、先ほどにはなかった有無を言わせない強さがあった。
私は後ずさる。その場から逃ろと、頭の中から本能が強く警戒音を発し続ける。


しかし同時に、彼に手を取られて付いていきたい、あの入り口に入って暗闇の中にあるものを見たい、その衝動が私の中から湧き起こり、抑えきれなくなりはじめたのも、私は自覚し始めていた。

「おいで」

あの青年はなおも手招き、笑顔で誘い続けている。
声に比例するように一緒に歩きたい衝動が強まっていく。
私はその場から動けずにいた。


【終】


※豆腐怪談シリーズはTwitter上でアップしたものを訂正&一部加筆修正などをしたものです。

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Photo by Danny Devito on Unsplash

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