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豆腐怪談 35話:全くだ

梅雨もまだだというのに、もう夏みたいな気温だ。いや真夏はもっと暑いが、体感気温的には完全に夏だ。
そんな日のことだった。


先の用事が早く済んだため、次のお得意先を訪問する予定時間までまだ1時間も余裕がある。
自分一人なのをいいことに、大きな公園の雑木林に囲まれた駐車場の片隅で仮眠を取ることにした。駐車場の自販機で水を買い、木陰の下に車を停める。運転席側の窓は半分、他の席の窓は外から手を突っ込まれない程度に開ける。

今の時期が真夏と違うのは、クソ暑いがそれなりに涼しい風があって風通しの良い日陰なら少しはマシという点。
風もあるし涼むならこの程度なら充分。
座席を倒して暫し休憩だ。


………そう思っていた時期が私にもありました。
暑いものは暑かった。
今の気温は33度。車のエアコンを付けっぱなしにできない社内事情のおかげで、車の中にいるだけで汗がにじむ。経理と上司は売り上げ向上よりも、どれだけ経費節減できるかというチキンレースにご熱心だ。

風は入れど、この蒸し暑い気温では外に突っ立っているよりはマシぐらいの効果しかない。
フロントガラスの上で木陰が揺れる。見た目だけは爽やかな初夏の光景だ。
だがこの気温は初夏の気温ではないから、ただ葉っぱが揺れてるとしか感想の言いようがない。
汗がひたすらにじむ。汗が体と顔をつたいシャツや座席にシミをつくる。
水を飲み干した今は車の中で呻くしかない。

「あー、暑すぎるぅ…」

「全くだ」

男の声が、誰もいない筈の後部座席から聞こえた。
振り返ると、黒い長袖を着た男が、後部座席を四つん這いで進みながらこちらを見ている。
その顔のほとんどは真っ黒なノイズがへばりついたかのように見えなかった。ただ唯一見える口元と顎のラインには端正さがあった。

何が起きたか理解できずにフリーズした私を、男は不思議そうに首をかしげて見ていたが、そのうち「ああ」と一人だけで納得したような声を上げた。
「これは失礼。木陰を進みたかったものでね」


男は軽く頭を下げた。顔を進路方向にもどし、わずかに開けた窓に指をかけ、身を持ち上げた。
男の手が窓に触れた瞬間、手が布のように平らになり窓の外へ出た。
窓に触れた腕が、頭が、肩が、腰が次々と平らになり、外へ吸い出されるように男はずるり、と窓から抜け出た。

そのまま風に乗って滑空して漂うように男は飛んだ。雑木林の前で着地した瞬間にヒトの形に戻った男は振り向くことなく雑木林の中へ消えた。


【終】

※豆腐怪談シリーズはTwitter上でアップしたものを訂正&一部加筆修正などをしたものです。

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